日本が1945(昭和20)年8月15日に大東亜戦争に敗れた後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)、およびその圧力の下で日本の国会や政府によって行なわれた一連の民主化・自由化の改革があった。
1945年、連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーは当時の首相、幣原喜重郎に対して、五大改革指令を命ずる。その内容は
1.秘密警察の廃止
2.労働組合の結成奨励
3.婦人の解放
4.教育の自由化
5.経済の民主化
であった。
1946年、GHQは日本国憲法を成立させた。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念を盛り込んだ。
また改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などが含まれる。農地改革で自作農が飛躍的に増えたことは農村部の保守化につながったといわれる。長こと農村は保守政党の地盤だった。
このうち農地改革(のうちかいかく)は、農地の所有者の変更や法制度の変更など、農地を巡る改革運動の1つ。一般的には1947年、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。
地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものに換わった。
日本の農家はこれによって基本的に自作農となった。自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。
それまでも「米どころ」とされていた東北の秋田県でも1反歩(10アール、300坪)あたりの収穫量は300~360Kgに過ぎなかったが、農民の生産意欲の向上、肥料と農薬の進歩、早植え、早刈りいれなど栽培技術の進歩などにより収穫量は倍増した。
但し、今日の農村の疲弊は農地解放とは別問題である。
農地改革の構想は実は戦前の農林省において石黒忠篤(後の農相)らが小作争議の抜本的な解決策として打ち出したことがある。だが、当時の帝国議会の議員には地主層が多く、賛成が得られないままに宙に浮いてしまったものであった。
敗戦後GHQの最高司令官マッカーサーは、不在地主が日本の軍国主義に加担したとして農地改革を行った。
当初、農地改革に対するGHQの姿勢は消極的であったとも言われるが、当時の農相である松村謙三は貧農救済の立場を優先し、より厳しい改革を断行した(ちなみに松村自身の所有の土地も対象とされた)。
私の係累では大叔父が隣町で薬局を営みながらこつこつと田圃を買い集め、「不在地主」になっていたが、すべてを没収同然にされたため、ショックから首吊り自殺した。
この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、正当な価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。
その後1964年秋に成立した佐藤栄作内閣は、旧地主を保護するために1456億円に上る交付公債支給を閣議決定、これを「農地報償法案」として国会に提出。
社会党、共産党は保守反動法案として大反対。しかし政府自民党は衆参両院本会議で採決を強行、1965年5月28日に成立させた。戦後処理追加の一幕だった。私は採決強行の目撃者となった。
なお、農地改革は山林などを除外したため、寄生地主が温存されたという見方もあるが、その後の木材価格暴落などにより完全に形骸化している。
つまり山林の維持管理には間伐(間引き)などのための莫大な人件費を要するが、木材価格の低迷で、人件費を補充するほどの収入を得られない山林地主は、管理を殆ど放擲せざるを得ないからである。
全国各地の日本酒醸造者は昔から田畑および山林地主の大地主によって経営されてきたが、加えて日本酒の売れ行き低下もあって各地で日本酒メーカーの倒産が起きている。農地解放の余波がいま到達した感がある。出典:「ウィキペディア」2007・08・13
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