888 米国の原発建設再開 渡部亮次郎

東京電力が、米国の原子力発電運転管理会社STPニュークリア・オペレーティング・カンパニー(STPNOC)との間で、原発の建設・運転管理に関する技術コンサルティング契約を締結したと発表したのは2007年3月13日。
STPNOCはNRGエナジー社のサウステキサスプロジェクト原子力発電所の3・4号機増設計画で、建設と運転管理を受託している。
この増設計画が実現すれば、米国では1979年以来、初めての新規原発建設となる。増設原発は米国で初めて改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)を採用する予定だ。
ABWRは東京電力が新潟県柏崎刈羽原発で2機を10年間運転して来た方式で、今回2007年7月16日の中越沖地震でも周辺装置は被害を受けた。
しかし国際原子力機関(IAEA)が8月14日に発表した調査結果では、耐震設計上の想定を上回る揺れにもかかわらず、運転中の原子炉が安全に停止したほか、予想より損傷が少なかったと結論を下し、「お墨付」を与えた。
2005年8月に制定された米国の「2005年エネルギー政策法」(EnergyPolicy Act of 2005)は、原子力発電をエネルギー供給の重要な柱としている。
また、07年1月に日本の甘利経済産業相と米国エネルギー省ボドマン長官によって合意された「エネルギー安全保障に向けた日米エネルギー協力」の中にも、日米両政府が協力して新規原子力プラントの建設を支援していくことが盛り込まれていた。
最近の情報によると、原子力発電所の建設について米国政府は8月から建設許可への「審査」を開始した。建設が許可されれば1979年3月28日のスリーマイル島原子力発電所事故以来、ほぼ30年ぶりの新規原発となる。
スリーマイル島原子力発電所事故はアメリカ合衆国東北部ペンシルバニア州で起こった「想定された事故の規模を上回る」過酷事故である。
メトロポリタン・エジソン社(所有はGPUニュクリア社)のスリーマイル島原子力発電所は州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川のスリーマイル島(Three Mile Island)と呼ばれる中州にある。島の周囲約3マイル。
21世紀初頭現在もなお原子炉内には広島型原爆数百個分のストロンチウム、セシウム、ヨウ素が残っている。
スリーマイル島の原子力発電所は2つの原子炉があり、そのうち2号炉(TMI-2)はバブコック&ウィルコックス社(B&W社)が設計した加圧水型原子炉(PWR)で電気出力は96万kWであった。
事故当日、このTMI-2は営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中だった。事故は1979年3月28日午前4時すぎから起こった。
初め2次冷却水の給水ポンプが故障で停まり蒸気発生器への2次冷却水の供給が滞ったため除熱が出来ないことになり、1次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し加圧器逃し安全弁が開いた。
このとき弁が開いたまま固着し圧力が下がってもなお弁が開いたままとなり、蒸気の形で大量の原子炉冷却材が失われていった。
原子炉は自動的にスクラム(緊急時に制御棒を炉心に全部入れ、核反応を停止させる)し非常用炉心冷却装置(ECCS)が動作したが、すでに原子炉内の圧力が低下していて冷却水が沸騰しておりボイド(蒸気泡)が水位計に流入して水位を押し上げたため加圧器水位計が正しい水位を示さなかった。
このため運転員が冷却水過剰と勘違いし、ECCSは手動で停止されてしまう。このあと1次系の給水ポンプも停止されてしまったため、結局2時間20分も開きっぱなしになっていた安全弁から500トンの冷却水が流出し、炉心上部3分の2が蒸気中にむき出しとなり、崩壊熱によって燃料棒が破損した。
結局、炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の45%、62トンが原子炉圧力容器の底にたまった(当時、炉心溶融はないとされた)。
環境への影響・健康被害は事故の規模の割には多くはないが、放出された放射性物質は希ガス(ヘリウム、アルゴン、キセノン等)92.5 PBq(250万キュリー)、ヨウ素555GBq(15キュリー)、周辺住民の被曝は0.01~1ミリシーベルト (単位)mSv程度とされる。
その7年後、今度はチェルノブイリ原発事故が加わり「原発真っ平」のムードが地球を包んだ。
チェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。
4号炉はメルトダウンののち爆発し、放射性降下物がウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。
この規模の原発事故は前例がなく、世界の原子力開発で史上最悪の事故といわれている。
当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。
この爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。その放出量は莫大であり、かつて広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われている。
当初、ソビエト連邦政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れこの事故を公表しなかった。そのため、何も知らない付近住民は避難もさせられないまま甚大な量の放射線をまともに浴びることになってしまった。
しかし翌4月27日、スウェーデンでこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
爆発後も火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、核の火に赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソビエト政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。
死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31人だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認された。
旧ソ連時代の内部資料で確認されている被害者だけで約13,000人、その殆どが既に放射線障害で死亡しており、さらに周辺住民の多くが死亡したと考えられている。
最終的には40,000人に達するとロシア科学アカデミーは発表したが、当時西側諸国の思惑もあり否定されて今に至り、最終的な被害者数は公表されていない。
しかし地球温暖化と大気汚染を防ぎながら経済水準の維持、向上を図るという二律背反を解決するためには、現在の科学では、原子力発電依存は不可避である。
したがってブッシュ大統領の米国でも、スリーマイル島事故から30年を一区切りとして新規原発の建設が浮上した形なのである。参考資料:J-CASTニュース [2007年3月14日18時9分] ・毎日新聞 8月15日10時54分配信・「ウィキペディア」

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