少年の頃から戦国武将の物語を耽読する癖がある。真田幸村の居城があった上田市で旧制中学時代を送ったせいかもしれない。政治記者になって政治家を戦国武将になぞらえて見る妙な習慣が身についてしまった。
一番魅力的な武将は越後の上杉謙信。軍神と言われるだけあってずば抜けた才覚を持っている。その兵の動かし方は神がかっていて、疾風のごとく敵を襲うが、戦陣を去る時も意表をつく速さがある。
政治も広義の”戦さ”なのだが、戦後の宰相をみても謙信ほどのカリスマ性を持った天才的な人物はいない。謙信の魅力は戦さに強かっただけでない。曹洞宗の古刹・林泉寺で禅を学び、自らを毘沙門天の化身と称して、天罰の戦さを行なうストイックなところがあった。生涯不犯(未婚)を貫いている。
和歌に通じ、達筆でもあり、源氏物語など恋の物語を好んで読んでいる。公家との交流も深い文化人でもあった。こんなところから”謙信女性説”もある。天才にありがちなナルシズム(自己愛)があるが、やはり戦国随一の武将であろう。
武将も政治家も二つのタイプがる。天才肌の奔放な人物。理詰めの堅実な人物。やはり天才肌で先見性のある武将や政治家にこそ魅力がある。凡人が及ばぬ優れたリーダーこそ動乱期には必要である。神がかりは時には、いかなる理屈よりも強い。
その意味では郵政選挙でみせた小泉手法は、常識を越えた謙信型なのかもしれない。
関東に水谷蟠竜斎という武将がいた。徳川家康をして「関東で蟠竜斎に勝る武将なし」といわせた人物だが、生涯に数十度の合戦をして、常に少数で多数に勝つ戦さを得意としている。一度も敗北の経験がない。勇将であったが、深追いせずに和睦する戦さも数多くしている。遺言は「天下の大勢をみる眼力を持て」。知将というべきであろう。
この反対が北信濃の村上義清。当代一の猛将といわれながら、真田幸隆の策略に翻弄され、武田晴信(信玄)によって信濃から越後に追われた。策略を嫌って、理詰めの力攻めの武略の範囲から出ることがなかった。
同じ例は関東の多賀谷重経にもいえる。関東一の鉄砲隊を擁して、後北条氏の大軍を数度にわたって撃退する武勇をみせたが、力攻めの武略から一歩も出ていない。蟠竜斎のような天下の大勢をみる眼力がなく、家康によって滅ぼされている。
固い攻め方が良いというのは正しくない。戦さは臨機応変であるべきで、原理主義者の武将の多くは、最後には敗北し滅びている。これに当てはまる政治家は、誰とは言わないが結構多い。
941 原理主義者の武将たち 古沢襄

コメント