2007年6月28日、老衰のため東京の自宅で87歳で永眠した元総理大臣宮澤喜一氏。東大法学部出身以外の記者は、記者と認めてくれないという噂だった。幸い、担当を命じられる事はなかったが、私が浪人になってから1度だけ会った事がある。
八郎潟を干拓して出来た秋田県大潟村の宮田村長がインタビューをしたいというので、親しい人を介して約束を取り付け、番町のマンションの一室にあった事務所に案内した。
宮田村長との話を聞いていただけだが、秋田県の田舎者とか村長如きが、といった態度は毛ぶりも見せず、丁寧に答えていたので、人というのは実際に会って見なければ真実はわからないな、という感を深くした。
たまたま「文藝春秋」の2007年9月号をめくっていたら長女のラフルアー・宮澤啓子さんが「風変わりな父・宮澤喜一」と題して内輪話を寄せておられたので、懐かしく読んだ。啓子さんの夫君はマレーシア駐在のアメリカ大使だそうである。
<一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かどうかの真偽は不明)。
『芸備人権新報』(1999年9月10日号)によると 「…(小森)ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。
(記者)宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。
(小森)宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね。
彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。
(小森)自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」>フリー百科「ウィキペディア」
<父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は”超名門エリート”と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)
末弟の泰さんは外交官だった。私が大臣秘書官として外務省にお世話になった1978年ごろは欧亜局長。園田直大臣の初外遊に同行してもらった。
それは日ソ定期外相協議。ベレンコソ連空軍中尉の函館空港強行着陸事件で極端に冷え込んだ日ソ関係を回復するきっかけとすべきチャンスだった。
しかしグロムイコ外相は北方4島返還交渉に応じようとせず、共同声明も出せないという始末で、予想通りの失敗であった。
迎賓館を退去する時、大臣は記念に備え付けの便箋を貰っていくようにと命じたが、それを聞いた宮澤局長「大臣、ラジオは如何ですか」とからかった。流石に瞬間、しらけ鳥が飛んだ。
それはともかく兄の喜一さんについての政界の評判は毀誉半ばしていた。佐藤栄作、福田赳夫といった人たちは自らの内閣に官房長官としての入閣を策し、側近に止められた。
止めた側近の最たる者が後に組閣する田中角栄氏だった。「あれは秘書官どまり。自ら政策を立案できない。言いつけられたことだけは完璧にこなすが、それ以上はできない。あいつだけは総理にしてはならない」と強く言っていた。
それが総理大臣になっちゃった。
<1991年、海部首相の退陣にともなう自由民主党総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。
保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。
在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。
またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。
折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川内閣に政権を明け渡す。
宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。>「ウィキペディア」
以下、啓子さんの手記(「文藝春秋」9月号より抜粋。
ところで宮澤さんは家庭では子供たちに対しても自由放任主義。くだらない質問には返事もしなかったそうだ。記者たちにもそうしたかったろうが、随分腹の立った事だったろう。
「女は足の美しい方がいいのだ」と畳に座る事を禁じ、和式トイレにしゃがむ事も禁じた。足の湾曲を恐れたのである。
長女の就職の世話を絶対しなかった。「君のことだ、厭になれば勝手に辞めるんだから紹介はしない」。
村上春樹の「ノルウエイの森」を読み面白かったといった。ユーミンのコンサートに河野洋平と行った。新聞は女性週刊誌の広告まで読み芸能ゴシップに詳しかった。
「ピーターという双子の男の子ガアメリカで生まれたらしいよ。もう一人の名前がわかるかい、リピーターだよ」
記憶力は娘から見ても抜群。5歳の孫娘とトランプの神経衰弱をやり、1枚も取れなかった孫娘が泣いた。「泣くというのはルール違反だ」と怒った。
首相退陣となる総選挙の開票の途中で床についてしまった。翌朝「宮澤退陣」の見出しを見て驚愕していた。
小泉さんに議員引退を迫られた時「いいよ」と言ったが、実際は「腸が煮えくり返る思いだ」と他人に洩らした。
2007年6月の初めごろから笑顔が見られるようになった。身体が弱くなって仕事がでできないことに諦めがついたのだと啓子さんは覚悟した。
来日した義母が「キイチ、どの大臣が一番、楽しかったの?」「やっぱり総理大臣かな」と答えた。「総理大臣というものは、電車に乗っていて突然、目の前の席が空くようなものだ」と言っていた。2007・09・0
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