964 真田の不思議について 古沢襄

「滋野一族・真田の不思議」を書いたのは、私が信州・上田に縁があるからだ。一般には知られていない真田家の歴史書「真武内伝」にある注目すべき点を指摘しておいた。真田家については上田だけでなく、広く全国的な関心がある。
「長野県東御市の深井氏をかつて研究したことがあります。真田家は海野氏の分流ですが、海野家の本流とすることに深井氏が大きく係わっていたようです。深井氏は、村上氏により上州に追われてもかつての領土に戻るために、相当の帰郷の執着心で真田家に協力したようでした。真田右馬助綱吉という人物が古文書(生島足島神社)に出てくるのですが、戦国真田家の解明は、この人物が鍵のように思います」という郷土史の研究家からお知らせを頂いた。
「信濃大門」のペンネームを使っているから長野県人であろう。この人は「思考の部屋」というブログを持っている。二つの研究文を紹介するが、地方にあって、このような本格的な郷土史の研究をしている人が数多くいることを知ってほしい。
       http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/s/%BF%BF%C5%C4
私が興味を持ったのは、「真武内伝」で否定的に扱われた滋野一族の朝鮮帰化人説が、「信濃の渤海国人」で、別の視点で眺めている点にある。深井氏の存在についても本格的に調べてみたいという気持ちに駆られている。
☆戦国真田氏と深井氏との関係
NHKの歴史大河連続ドラマに「真田家の家臣として深井氏」が出ていたという連絡を受けびっくりした。
郷土史に熱意を燃やしている頃、「深井氏の研究」として次の小論を書いたことがあるので紹介したい。
 
1 古族深井氏の研究に当たって
長野県の東信地区の東部町は、平成16年の北佐久郡北御牧村との合併で東御市となった。
旧東部町和(かのう)地区には、深い地籍があり、室町期には小県郡下の深井郷として存在していた。その後上深井、下深井地籍に区分されたが、明治になってからは小県郡和村となり字名で東深井、西深井になった。
現在、東深井には、深井姓の方々が居られる。
中でも深井幸侊宅は、祖先の深井棟廣が、海野氏の家臣で戦国期に村上氏と海野氏との戦いで海野棟綱とともに上州追いやられた。
その後戦国混乱期における一族の存亡をかけての内紛により、真田氏の配下となったが、策略家真田氏により深井棟廣、海野棟綱の兄弟は謀殺された。
その後深井棟廣の養子深井綱吉も真田の手により忙殺されたが、その子深井三弥は真田昌幸の家臣となり孫深井外記は幸村の家臣となり一族の存亡を願ったが幸村の配下となた深井外記は1614年(慶長19年)の夏の陣で討ち死にした。
深井外記の子深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったが、元和8年(1622年)に真田信之家臣団48騎が松代を退去した事件があっり、その際に48騎の一員であった深井右馬助は、旧地(深井郷)に帰農することを決意し東深井に戻った。
私がこの古族に興味を持ったのは、東信地区における渡来人、滋野氏、海野氏、真田氏を研究すると、調べれば調べるほど深井氏の存在が気になったからである。
深井幸侊氏の父は亡深井 正(次男であるが家督を相続、長男は深井小太郎で、小太郎は海野小太郎の子孫であることからその祖父深井邦信が命名したとのことである)氏である。
深井 正氏がご存命であったころ、長野郷土史研究会の小林計一郎先生が訪れ調査されたとのことで、先生の著書「真田一族」にも紹介されている。
2 伝説
深井幸侊氏宅には、一つの伝説が残されている。
この伝説については小学校教諭で上田地方の民俗風習を研究されていた箱山貴太郎先生の著書「上田付近の遺跡と傳承」にも以下のとおり掲載されている。
東部町祢津に山陵宮獄神社というのがあって、貞元親王の陵に把つた神社であり、四ノ宮権現ともいっている。
四ノ宮というのは貞元親王が清和天皇の第四の二皇子と言う意味であり、この皇子は琵琶の名手であったという、宮中で琵琶を弾いていたとき、その音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り、糞をしたとき、その糞が皇子の眼に入って、眼病になって加沢の温泉に治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏である。と東部東深井深井正、深井信司氏の系図にある。
貞元親王が琵琶の名手であり、祢津の四ノ宮権現の前には巫女がたくさんいたこと、下之条の両羽神社にも巫女がいたことなどから察するに、貞元親王の後と称する滋野氏なるものは、芸能を伝える仕事をもって社会に広まっていったものたちかもしれない。
平安時代の末から平家琵琶を語る法師が諸国を回って歩いて各所にいろいろの伝説を生じさせているが、滋野氏にもそうした要素が多分にあったと考えてもよいようである。
上田市田町に配当屋というのがあったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をするところであった、ここの管理は深井氏が長くしていたという、という内容である。
箱山先生は、私が東信の小学校の生徒であったころ同じ学校に居られ父母が親しかった関係で、悪ガキであった私はよく親しみをこめて怒られたが、その後地方史に興味を持つなどないので今となれば残念である。
3 貞元(貞保)親王と深井某の娘
この伝説については、松代の真田氏が下克上の世の一族の発起の正当性を天皇家との血族を根拠とするために作り上げた物語で、その真偽は江戸期の国学者も述べているところである。
しかしここで重要なのは、真田氏が何故に「深井某」を利用したかである。
この伝説は、「信州加澤郷薬湯縁起」として群馬県鹿沢温泉紅葉館の小林康章家にも残されていると、群馬県嬬恋村の広報誌「広報つまごい」にも掲載されており広く知れ渡っている話であり昭和8年小山眞夫著「小県郡民譚集」では「信濃国深井の某が・・・」となっている。
当時の人々にとって滋野氏を東信地区に民間での各種伝説が残されているのであるが、親王名については「貞元」「貞保」のどちらかが使われている。この意味でもその真偽は明らかである。
この民間伝承についたは、滋野氏を祖とする望月氏に関し研究した望月町大伴神社宮司金井重道・望月政治著「望月氏の歴史と誇り」に、「貞保親王(清和帝第四皇子)三代実録による。貞保親王母藤原高子 号南宮、桂親王、延長二年六月葬ず、元慶八年甲辰年(884)夏五月貞保親王に滋野姓を賜う。
これは名門の家滋野貞秀の継続せしむるためである。親王に関する諸伝説は佐久、小県郡内いたる所にまことに多い。多いということは滋野領があり、領民に親しまれ尊敬され、それが具体化され表現されたものであろう。温泉地、山、谷、神社、寺院、恋愛、民間行事にいたるまで、際限もなく盛り沢山にどこへ行ってもある……」とその多さを語っている。
伝説における深井氏の存在は、伝説が作られた当時の人々にとっては、「深井氏は古族である。」との認識があったということを示しているのではないかと考えられるのである。
☆信濃の渤海国人
長野県東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社と呼ばれる神社がある。この神社は下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面に位置する。
この神社には、木造の船代と呼ばれる人物の木像があり、この人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。
奈良時代の朝鮮半島には、新羅という国が栄えその北に渤海(ぼっかい)という国が隣国新羅に劣らず栄えていた。
新羅について知らない人はいないが、「渤海国」になるとほとんどの人が知らないのではないだろうか。
その理由について「渤海国の謎」の著者上田 雄氏は、「およそ戦争とか、征服とか、ということに縁のない平和な国家であった・・・」、渤海国滅亡後「その跡地にその後数千年以上も国家というほどのものが続かなかった。」の2点をあげている。
このあまり知られていない渤海国人の木像が信濃国のこの地に古くから(年代不明・昔からある)ある。
それは、この人(渤海国人船代)か渤海国の関係者を敬い慕う同国人、またその人たちに影響を受けた地元の人がいなければ木像は存在しなかったことは明らかである。
渤海国は文徳天皇2年(698)ころ高句麗人の大祚榮が、高句麗を再興するために建国した国で当初「振」といった。
713年唐の玄宋の時に渤海郡王となり国名も「渤海国」となり、約200年続き、延長4年(926)に隣国の契丹に滅ぼされた。
わが国(日本というよりも大和)と渤海国との交流は、渤海使の記録を見ると神亀4年(727)から30回を越え使節が来朝し、日本側からも15回以上の送使が渤海国に行っている。
来日の使節団は当初は武官が多くその後文官が多くなった。
大陸の先進的な武術、戦略は当時の東北蝦夷征討を目指す大和政権の武人である大伴氏にとっては得がたいものであった。
渤海国人の武官の一部は大伴氏に同行し蝦夷討伐に協力し、彼らは訪れる各地(信濃・甲斐国巨間郡・信濃国・武蔵野国高麗郡等)に住む高句麗系の人々と交流をもち中には、帰国しない者もいたと思われる。
8世紀の後半になると大伴氏の影響の強かった小県郡下は、中央の大伴氏の衰退とともに大伴氏に代わり大伴氏と関係の深い高句麗系の人々が大和政権の兵器(馬も含む)、食糧献上者や武人としてその地位を高めていった。
続日本紀によると延暦9年(790)3月に大蔵大輔藤原乙叡が信濃守(長官)に、平群清麻呂が介(次官)に任命されるなど信濃への藤原氏の進出が顕著になった。
延暦10年(791)から延暦14年(795)の間、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂(祖先は渡来人)は征夷征討を行っているが、このころの大伴氏は藤原氏に対し帰順的立場になっていた。
藤原氏政権下の貴族社会において渤海国の文官のもつ知識は貴族のあこがれるところであり濃密な交流がもたれた。
小県も延暦14年(795)ころには、信濃介の殺害未遂による藤原氏との関係悪化も回復された。
この貴族社会においてその一員でもある滋野氏は延暦18年(799)滋野宿祢船白が日本側からの送使(朝貢した渤海国人を送る役目)として渡海している記録が類聚国史巻193にある。
滋野氏は、渤海国人の通訳人として有力な武器等の調達地である小県との関係を持つようになりその後更に関係を深めていくことになる。
弘仁5年(814)滋野宿祢貞主と坂上今継が出雲に到着した渤海使の存問兼領渤海客使として派遣され、文華秀麗集の作品等からこの貞主が渤海国人との親密な交流があったことが窺われる。
延暦18年(799)に蝦夷征討で貢献した信濃国の高句麗氏族が姓氏を賜り帰化したが、特に高麗家継等の賜った「御井」の姓は天武天皇の産湯の井戸の呼称や古事記上では神の名にも使用され、その尊さから家継等は、時の政権に対し相当の貢献があり、また渤海国人や滋野氏の推挙があったものと思われる。
小県郡における滋野氏といえば、戦国期の混乱の中、菅平で御牧の管理をしていた滋野一族の真田氏が本家である海野氏を粛清し、自らを本家筋にしたて際の清和天皇系滋野氏をいう。
これは下克上の世の正当な発起を主張するための系図の偽作によるものである。
これまで述べている滋野氏の遠祖(天孫)は天道根尊で楢原氏である。
楢原東人の代に黄金を発見し朝廷に献上したことから、伊蘇志臣を賜り(続日本記) その後宿祢を賜った。
滋野宿祢については、佐伯有清著「新撰氏姓録の研究考証編第三P359に詳しいが、貞主の祖父は大学頭博士楢原東人で滋野宿祢家訳で父は家訳である。「公卿補任」によるとその後、貞主らが朝臣の姓を賜ったのは、弘仁14年(823)正月とのことであるからそれ以前に登場する渤海国送使滋野宿祢船白は、宿祢が付いていることから東人・家訳・貞主の一族であることは確かで東人の子と推察する(望月町の旧家大草家の系図を参考にしてか?)郷土史家もいる。
これは滋野氏内で最も信濃に関係した人物が船白であったということである。
渤海国人からの最新式の武具等の製造技術の伝授を受けることは、また地元女性との交流からその子孫を残すことにもなる。そして通訳として来た滋野氏の一族も海野郷の裕福な財力は貴族として見逃せないものであり後の滋野氏の当地の支配を見ても明白である。
郷土史家で東信地区の民俗を研究した箱山貴太郎先生の著書に両羽神社について調査した結果が掲載されているが、近世まで渤海国との交流時代を彷彿される舞姫の存在があった。
伝承は時代とともに薄れ当時の有力な渤海人の名はいつしか滋野氏の船白(渤海国関係書では船代と書かれてもいる)と同化し、木像は渤海国人船代と呼ばれるようになったと思われる。

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