973 父子二代「二年首相」 渡部亮次郎

福田康夫氏を担ぎ上げて安倍首相を斬ってしまおうという”陰謀”は消滅していない。だが、肝腎の康夫氏が「迷惑千万!」といったっきり頑として「聞く耳持たない」そうだ。
先輩の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)によると、よく分かる。
<与党の関係者と話をすると福田康夫元官房長官の待望論が根強い。その裏には安倍首相では小沢攻勢を凌ぎ切れないという危機感がある。あと2年間は福田政権で繋ぎ、その後は思い切った布陣で総選挙を戦うのだという。
だが安倍首相で凌ぎ切れないものが、福田首相で凌げるものだろうか。仮に凌いだとしても、総選挙は誰を担いで戦うのであろうか。極めてプリミテイブな疑問だが、誰も答えてくれない。
こんなことでは、当の福田氏が「迷惑千万!」と言って一笑に付すのではないか。2年間のリリーフ投手なんて軽く見られたものだと不快感を持つに違いない。もともとが誇高き男である>。
康夫氏は私と同じ歳。既に71歳。父親赳夫氏の総理就任と同じ歳になった。あの時康夫氏は、しばらくしておっとり刀で丸善石油の課長を棄てて、総理首席秘書官になった。既にNHK国際局副部長から園田直外務大臣の秘書官になっていた私は初めて彼と顔を合わせた。
おかしな出合だった。赳夫氏が田中角栄氏と総裁のポストを争った「角福戦争」の1971-72年ごろ、私は赳夫番記者だったが、一度も康夫氏の顔は見ていない。政界に入る事は無いと思っていた。
赳夫氏の面倒を見ていたのは横手家へ養子に出た次男征夫(いくを)氏であり、彼が親父の後継者だろうと周囲は見ていた。それが、実際、親父が総理大臣になったら、突然、康夫氏が首席秘書官として割り込んできたからみんな驚いた。
実際のところ、弟の横手征夫氏は慨嘆したと聞いた。それでは赳夫氏の跡継ぎは康夫氏、征夫氏は参院議員を務めている叔父さんの後継者か、と噂しているうちに征夫氏は癌で急死してしまった。
赳夫氏が事務秘書官として最後まで使ったのは小和田亘(おわだ ひさし)氏である。1971年、佐藤栄作内閣の外務大臣になったとき、外務省から秘書官として転出されたのが小和田氏。ご存知雅子妃のお父上である。現在国際司法裁判所判事。
赳夫氏が総理大臣になったときも、外務担当の秘書官は当然、小和田氏となった。当時の小和田氏は宮内庁御用掛から東大教養部の講師に出ていたが、雅子様は往夫氏の家族と交流していて、康夫氏の家族は知らない。
康夫氏の知らない決定的な事実があった。親父赳夫氏の任期に「2年」という条件がついていたこと。例の「大福密約」である。
これは福田氏も大平正芳氏も田中角栄氏の要請に応えて三木武夫政権を倒した時、どちらが後継者になるか決めていなかったことに端を発する。そこで福田側から園田直氏、大平側から鈴木善幸氏、行事役として保利茂氏が立会っての両者会談で取り決めたもので、文書になっている。
しかし概要は福田氏の総理、総裁としての任期は2年をであり、その間、大平氏は幹事長として補佐するの一点に尽きる。
記者として園田氏をよく知っていた私はもちろん数人の記者たちも、園田氏から知らされて知っていた。だが赳夫氏はこのことを誰にも言えなかった。男として当然である。「俺な、70過ぎてやっと総理になったけど任期は2年だけなんだ」とは女房にも言えないだろう。
しかし、大平氏は密約の履行を迫るものの福田氏は予定通り約束が秘密である事をいいことに「反故」を決め込み、昭和53(1978)年11月1日告示の自民党総裁選挙予備選挙にあえて立候補したのである。
マスコミは福田氏の圧勝を予測したが、大平氏が110票差で勝った。勝因は福田氏の「密約反故」に対する角栄氏の怒りであった。田中派秘書軍団を軍師後藤田氏に預けて、東京選挙区を「絨毯爆撃」。エリート意識に凝り固まり、手胡坐を組んでいた福田派の敗北は自明の理だった。?
このときのNHKの大平番は今、参院議員の浅野勝人氏である。「なにツ!福田が立つツ? 話が違うじゃないか!」と大平は突っ立ち般若の形相になった・・・と私に教えてくれた。
敗れたと知ったとき、赳夫氏は「天の声にも時には変な声がある」との迷文句を吐いて本選挙を辞退、総理官邸を去った。康夫氏も静かにいなくなった。
あれは29年前。何がなんだかわからないうちに官邸を去らざるを得なかった屈辱。それが今度は自分が「2年」という枠をはめられ総理になれといわれても「親父の屈辱を俺にも呑めというのか」の心境ではないだろうか。康夫氏への同情しきりだ。2007・09・08

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