9月9日は毛沢東逝去の記念日だった。1976年9月9日午前0時10分に、北京で側近と主治医に見守られるなか毛沢東は82歳で逝去した。
遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている
毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命が完全に終了した。
私は1972年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉にNHK記者として同行したが、毛沢東は記者団の前には姿を見せず、間もなく死亡した。
毛沢東が世界に注目された最後の事件は、1972年2月18日北京における毛沢東・ニクソン会談である。
すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していた。それにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに米中国交正常化を成し遂げた。全世界の驚愕を呼び起こしたのだった。
1972年アメリカの同盟国である日本は中華人民共和国との国交を正常化させたが、米中国交正常化はニクソン訪中では現実のものとはならず、成ったのは日本に遅れること7年後の1979年1月1日だった。アメリカは日本と違って中中華民国(台湾)との関係に余裕を残せた。
毛沢東はニクソンの会見後に筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛沢東の体力を奪っていった。
私は周恩来総理に続いて毛沢東も死んだ後の1973年の8月8日、懸案の日中平和友好条約を締結するため、外務大臣園田直に随行して北京を訪れた。
その時、街の声を拾ったが、会う人のすべてが悪口を言うのが毛沢東であり、おしなべて評価するのが周恩来であった。市内の公園にひそひそ話をすると、湾曲した向うに声が伝わるという装置があり、声に驚いて相手を確認しようとすると既に相手は立ち去った後、という装置で彼らの本心を知ったのだった。
大躍進政策の失敗や文化大革命などで数千万人の犠牲者を出すなど、国を破滅の一歩手前に追い込んだ失策も数多いものの、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として市場経済化が進む現在も国父として崇拝されている。しかしそれは表向きだけだある。
近年の共産党政府は文化大革命などの失敗を認め始め、歴史の教科書からも毛を賛美する記述はなくなり、毛沢東の神格化は次第になされないようになっている。
さらに周恩来についても「なぜ周恩来は文化大革命を止めることができなかったのか」との議論も中国人の間で交わされるようになり、毛沢東の業績の否定を前提とした歴史論議もなされている。
2005年にはユン・チアンが『マオ 誰も知らなかった毛沢東』と題して、これまでの毛沢東像を青年時代から全てひっくり返す伝記を出版した。
情報公開されたコミンテルン資料や中華人民共和国国内外のインタビューによって再構成された、このショッキングな毛沢東像については研究者の間で議論と検証作業が進められている。
以前は国歌でさえ毛沢東の偉大さをほめていたが、死後間もなく国歌が元々の義勇軍進行曲に回復され、国歌での毛沢東をほめる言葉はなくなった。
元々毛沢東は建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策に批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。 大量の鉄増産のため、原始的な「土法高炉」と呼ばれる製造法による、農村での人海戦術に頼る小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、大量の使い物にならない鉄くずが生産された。
農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に廻るだけの結果になった。こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。
このことで「世界3大大量殺戮者」として、ドイツのアドルフ・ヒトラーやロシアのヨシフ・スターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。
また、スターリン批判や対米政策をめぐり、ソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。
こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。
この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし一方、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会を窺っていた。
1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場におもむき、100万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。
この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、1971年の林彪墜落死事件以後、人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えることとなった。
1976年9月9日0時10分の死の前に復活したトウ小平は公然と経済の資本主義路線を打出し、今日の繁栄をものにした。しかし今日の中国は繁栄ゆえに抱えた矛盾に悩んでおり、この解決は全く不可能と見る学者らは中国の近未来を暗く想像している。参照「ウィキペディア」2007・09・09
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