戦後政治史でもっとも魅力的で国民的な人気があったのは河野一郎氏であろう。河野氏に較べれば吉田学校の優等生だった佐藤栄作氏や池田勇人氏も色褪せてみえる。政権を手中にすることなく憤死した河野氏だったから判官贔屓もあるのだろうが、一度は総理の座についた河野首相の力量をみたかった思いが残る。
私は岸信介元首相、池田元首相、福田赳夫元首相の担当記者だったから、河野氏や佐藤氏を直接は知らない。だが岸から池田へ、池田から佐藤へと政権交代劇で夜討ち朝駆けの日々を政治記者として送ったので、常に河野氏を意識する立場に置かれた。
政治記者を卒業して、やがて共同通信社の経理局長という思ってもみなかったポストについた時に、河野氏の実弟・河野謙三元参議院議長の孫娘を部下に持った。謙三さんが参議院副議長時代、多摩川の河川敷でゴルフの手ほどきを受けた。毎日と読売の謙三さん記者と一緒に箱根の一泊ゴルフによく連れていって貰った。その孫娘を預かったのだから人の世の狭さを感じたものである。
学生時代に東京・渋谷にほど近い大橋というところで三年間下宿生活を送った。同宿の男が二歳年下の渡辺幸雄氏。幸雄氏は渡辺美智雄氏の従弟であった。爾来、幸雄氏とは半世紀を超える無二の親友となった。その縁で美智雄氏の知己を得たが、美智雄氏は河野氏に認められ、県会議員から衆院議員になっている。
やがて福田派の派閥記者になったら、河野派の担当記者だった渡部亮次郎氏が福田派の担当となっていたので、同じ東北にルーツを持つこともあって親しくなった。河野派だった園田直氏の知己も得た。亮次郎氏との交友は今も続いている。
不思議なもので岸氏の実弟である佐藤氏と、その派閥には縁がない。政治部の第一線を退いてから河野氏の周辺にいた人たちとの濃密な縁で結ばれて今日に至っている。河野一郎の人間像は、その人たちから教えられ、私の頭の中でますます魅力ある政治家のイメージが広がっている。
話は遡るが、岸氏との戦前からの付き合いで昭和二十年に岸秘書になった山地一寿氏から戦後秘史の話を聞いたことがある。いつも岸事務所の奥の院にいて、東京日日新聞社の先輩ジャーナリストだった山地氏だが、度の強い色眼鏡を掛けていて近寄り難い風貌の持ち主。
しかし岸氏の周辺にあって児玉誉士夫氏ら河野側近とのパイプ役を務めている。「岸は佐藤と違って、河野に悪感情を持っていない。むしろ稚気愛すべき政治家として買っていた。大野、河野を両翼にして反岸の池田を蹴散らし、中央突破する覚悟でいた」と証言している。
これは昭和三十四年六月の内閣改造にからむ秘話である。まさに六〇年安保の一年前の出来事であった。岸首相は河野氏と組むか、反岸の池田氏と組むかの決断に迫られていた。その心は「岸・佐藤兄弟内閣を作っても意味はない。河野も池田も背を向ければ、内閣を投げ出すしかない」と思い詰め、良子夫人にその旨を話している。
その覚悟を決めて翌日、栃木遊説中の河野氏を総理官邸に呼び戻した。河野氏は裏で池田氏と手を結ぼうとしている佐藤氏に不信感を持って「佐藤の蔵相留任は認められない」と言っていた。
一方、池田氏は「岸とは政治理念を異にするから入閣するつもりはない」と倒閣の色を鮮明にしていた。その間に立った佐藤氏は大磯の吉田茂元首相と連絡しながら、岸・佐藤・池田提携を模索している。
窮地に立たされた岸氏は、まず河野氏と会談して協力を求めたが、入閣を断れてしまった。だが「このあと池田と交渉するのは結構だが、池田に断れたら内閣を投げ出さずに、もう一度私に相談してほしい」と河野氏は含みを持たせた発言をしている。池田が断るという前提での物言いである。
池田氏を呼んだ岸首相は「河野に協力を求めたが断られた。君からも断られれば、内閣を投げ出さざるを得ない。後継首相は、これまでのいきさつから大野副総裁を推さざるを得ない」と最後の説得を試みている。
これは池田氏にとって泣き所である。入閣を断れば岸内閣は瓦解するが、大野・河野内閣を作る結果となる。大磯も佐藤氏もそれを怖れた。池田氏は入閣を承諾する一方で「改造人事については私と佐藤君に任せてほしい。大野、河野派からは入閣させない」と条件をつけた。
岸氏は「君も佐藤もいずれは国家の運命を背負う総理・総裁の器でないか。その君がそんな狭量では困る」とたしなめている。池田氏は屈辱感に包まれた。
池田氏が入閣に応じたという報は、河野派の春秋会事務所に伝わった。池田氏が入閣を断り、大野・河野内閣が実現するという夢が儚くも消え去った。もし、岸・河野会談で河野氏が無条件で入閣に応じていたら、河野首相が誕生し、池田内閣は生まれなかっただろうというのが山地説である。
安倍内閣が瓦解し、福田政権が出来た政変をみながら、昭和三十四年夏の改造劇を思い起こしている。麻生内閣の夢は、かなりの山坂の彼方にある。
1026 河野一郎と麻生太郎 古沢襄

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