NHKの大河ドラマ「風林火山」は、武田・今川・北条の三国同盟を描いた。武田・北条の盟約を確かなものにするために晴信の長女を北条氏康の息子・新九郎(氏政)に嫁した。天文二十二年十二月に武田家から北条家の輿入れは、騎馬武者三千を含む一万余の行列だったという。
豪勢な輿入れだが、晴信の正妻の悲嘆は尋常のものではない。テレビでは十二歳の娘を政略で手放す母親の愁嘆場としか表現できないが、実はもっと残酷な運命が隠されている。
晴信が三国同盟に応じたのは、甲斐の背後にある今川・北条と盟約を結んで、越後の上杉謙信との決戦に備えるためであった。謙信を倒せば、次の目標は今川、北条を倒す戦略地図をすでに描いている。
北条と戦えば嫁した長女を襲う悲劇的な結末はみえている。天下を制するために自分の長女をあえて犠牲にする戦国武将の酷薄さがかいまみえる。長女を抱いて人前を憚らずに正妻は泣いた。
それだけではない。前年の天文二十一年暮に晴信の嫡子・義信の室に今川義元の娘を迎えて武田・今川の盟約を結んだ。今川と戦えば、義元の娘の必要性はなくなる。義信はこの室を愛していたから、晴信と対立して悲劇的な最期を遂げている。
長女だけでなく長男すら犠牲にする晴信の酷薄さを赤裸々に描いていては、大河ドラマは悲劇のドラマになってしまう。
晴信にしてみれば京都の公家から迎えた正妻に対する愛情はすでに失せている。諏訪にある愛妾・由布姫とその子・勝頼のことしか考えていない。正妻の子を政略の犠牲にすることに何の躊躇もない。だが、愛妾の由布姫も胸の病で、生命が間もなく尽きようとしている。
由布姫が死んだのは弘治元年十一月六日。父頼重の墓所・諏訪市神戸(ごうど)の頼重院に葬られたとみられるが定かでない。伊那郡高遠建福寺に現存する由布姫の墓は、武田勝頼が高遠城主になってから移したものといわれる。享年二十五歳、戒名は乾福寺殿梅巌妙光。
永禄三年五月十一日、今川義元は二万余の大軍を率いて上洛の途についた。これを織田信長が桶狭間で義元本陣に奇襲をかけて、義元の首をとった。首のない胴体は三河牛久保にある大聖寺に葬られた。
武田信玄は義元の戦死を三日後に知ったが、三国同盟の一角が崩れたので、上杉謙信が動くと判断している。北条氏康・氏政父子は破竹の勢いで関東攻略の兵を進めていたが、上杉謙信が関東に出陣すると予想せざるを得ない。関東の武将たちの動きも気になる。
事実、春日山城で義元戦死の第一報を受けた上杉謙信は「関東に騒動が起こる」と顔を紅潮させて言い放った。謙信は上洛した時に朝廷から関東管領の内命を受けたことが、関東の大名に知れ渡っていたので、常陸の佐竹義昭らから関東出兵の要請が相次いできた。風雲急を告げる関東情勢なのだが謙信はまだ動かない。
謙信の軍が動いたのは永禄四年の冬。深雪地帯の上越国境を大軍で越えてきている。厳冬期の深雪地帯を大軍で超えるのは、現代でも至難の技だが、謙信は前年の九月から深雪地帯の各所に避難小屋を建てて、番人を置き十分な燃料と食糧を蓄え、冬の山道に詳しい猟師をことごとく集めている。
冬季に越すこと不可能とされた深雪地帯の上越国境を疲れもみせずに謙信の大軍が上州の沼田口に現れた時に信玄も氏康も恐怖感を持った。模様見の関東武将たちは先を争って謙信の傘下に下り、その軍勢は十一万余になったという。
1037 武田晴信正妻の涙 古沢襄

コメント