■歴史から学ばなければ、国際政治はわからない
国際政治の研究を志した私が、大学院を出て、一九七三年よりイギリスのケンブリッジ大学へ留学したのは、ハリー・ヒンズリーという教授の存在があったからです。
当時日本では、国際政治を「モダンサイエンス」として計量的に捉える、アメリカの学者の考え方が主流になっていました。例えば、コンピュータでシミュレーションしたモデルケースをもとに理論立てをし、それを現実の政策に応用する。若い研究者たちの多くがその手法に憧れ、留学先としてアメリカの大学を選んでいました。
しかしながらその理論は、単純な抽象理論の域を出ず、アメリカがそうした考え方で国際政治を捉えていたことが、後年、ベトナム戦争の失敗に繋(つな)がっていったとも言えるのです。
これに対して、ヒンズリーという人の理論は、非常に深く、思想的、哲学的でした。その理論は、「すべての学問は歴史に還元される。特に国際政治という学問の領域は、独自には存在し待ず、国際政治はすべからく歴史から学ばなければわからない」という理念に根ざすものでした。
アメリカ流の国際政治学に席巻され、当初彼は単なる歴史家としか見られていませんでしたが、その理論は確かなものでした。八一年に日本を訪れた時、彼はすでに
「十年とおかずにソ連は変わり、冷戦は終わる。いまから冷戦後のことを考えておかねばならない」と明言していました。まだ若く見識の浅かった私には到底信じがたい言葉でしたが、彼の言う通り、その後ソ連は急速に変わり、九一年にはついに崩壊しました。
日本の大学院で研究を進めつつ、歴史の重要性を痛感していた私は、ある時ヒンズリー教授の書かれた『Power and the Pursuit of Peace』(力と平和の追求)という本に出合いました。そこに貫かれている〝歴史に学ぶ視点″に共感を覚えた私は、ぜひこの人のもとで研究を続けたい、と考えてケンブリッジへの留学を決意したのでした。彼の前で自分の考えを述べたところ、「君のアプローチは正しい。その考えを貫きたまえ」と励まされ、私は非常に大きな自信を得ることができました。私はヒンズリー教授に当初、七三年から七七年の間学生として指導を受け、その後も学問の師、人生の師として長きにわたって薫陶を受けたのです。
■好きな学問に没頭する幸せ
ヒンズリー教授は一九一八年にイギリス中部の町で生まれ、後にケンブリッジ大学の副学長(学長のエジンバラ公に次ぐ要職。実質的な学長)まで務めた人です。私の二度目の留学中に受爵して〝サー″の称号も得ました。
そうした高い地位にあるにもかかわらず、権威を振りかざしたり、おつにすましたようなところは微塵もなく、世間体を一切気にせず、気さくで面倒見の良い、心温かな人でした。
ケンブリッジの町を歩いていると、向こうのほうから、ボロボロのレインコートを身にまとつたヒンズリー教授が、オンボロの自転車を走らせてくるのによく出くわしました。彼はいつも、独特のアクセントで「ハロー、ナカニーシ!」と、私の名前を大声で呼んでくれたものです。孤独に陥吾がちな留学生活を、実り多いものにできたのも、東洋から来たー留学生に過ぎない私を、彼が親身になって指導をし、励まし続けてくれたおかげです。「私には趣味がない。しかし私は、この学問が趣味だから、私ほど幸せな人間はいない」
彼は学問を心から愛した人でした。講義中はいつも、チョ-クの粉で真っ白になった古ぼけたガウンをまとい、終業時間を忘れて延々と歴史について、国際政治について語り続けました。話の合間に学生一人ひとりに顔を近づけ、「わかったか?」「わかったか?」と、スキンシップをとりながら講義を進めていくのでした。学生たちは、唾やチヨークの粉が降りかかってくるのに辟易しながらも、彼の人格に強烈に吸引され、講義に聴き入ったむのです。
そのヒンズリー教授の風貌は、さながら名優ピーター・オトウールの演じた映画『チップス先生さようなら』の主人公を彷彿とさせるものがありました。そんな彼に、私は心から敬意と親しみを感じていました。
■驚くべき素顔
そのヒンズリー教授が、私の留学中に受爵をします。世間的な地位や名誉には無頓着で、派閥をつくるわけでもなければ、有力者とのつながりをもつわけでもない。ただ自分の好きな学問に没頭している彼が、突然〝サー″の称号を得る。周囲は「なぜ彼が……」と驚ぎを禁じ得ませんでした。
その理由が明らかになったのは、第二次大戦終結から三十年が経ち、大戦中の機密情報が公表されるようになってからでした。彼の実像が明らかになるにつれて、周囲は再び驚きに包まれたのです。
実は、彼は第二次大戦中、イギリスの情報部員として、戦争の帰趨に関わる重要な役割を果たしていたのでした。
イギリスでは、戦争が起きると優秀な人材は情報部にスカウトされます。語学が堪能で人格面での信頼も篤く、ケンブリッジでもずば抜けて優秀だったヒンズリー教授は、ブレッチリー・パークという、ドイツの最高機密暗号を解読する組織にスカウトされました。彼は、そこで解読された内容を、アメリカ、オーストラリア、.ニューギニア、フィリピンといった前線を股にかけ、マッカーサー司令部に伝達する連絡将校の役割も果たしていたのです。
さらに、大戦の終結した一九四五年、彼は大戦中の暗号解読の成果をもとに、情報収集に関する英米協力を恒久化する協定を起草し、締結を渋るホワイトハウスを説得して見事締結に至らしめました。彼の頭の中には、すでに新たな脅威・ソ連のことが念頭にあったのです。結果的に、ここで協定を結んだことが、後の冷戦で非常に大きな、いわば世界史的な意味を持つことになるのです。
ヒンズリー教授は、イギリス国家に多大な国益をもたらした大功労者だったのです。彼は終戦の日に、ブレッテリー・パークで知り合った女性と結婚します。新婚旅行に出かける前にチャーチルのもとで情報局長を務めたミンギス長官を表敬訪問したところ、彼は、引き出しから数枚の金貨を出してヒンズリー教授に手渡し、彼の功績を讃えたそうです。その金貨は、当時の大学教員の給料の二年分にも相当する高価なものだったといいます。
■日本は歴史の価値に目覚めよ
ヒンズリー教授は、四七年にブレッチリー・パークでの仕事に区切りをつけると、再びケンブリッジに戻りました。政府からの誘いを一切断り、ひたすら学問の道を貫くためでした。その引き際は実に見事なものでした。
その一方で、大戦中のキャリアを生かして世界の要人を十名くらいの内輪の授業に招き、若い私たちにその話を聞かせてくれました。キッシンジャーをはじめとするニクソン政権の高官ら、世界を実際に動かしている人々の話を直に聞く機会を与えていただいたことは、何ものにも替えがたい大きな財産となりました。
社会的な栄達や名誉にはほとんど関心を示さず、学問に熱心で、人格的にも優れていた彼は、自ずと多くの人々から慕われ、尊敬を集め、周囲から押し上げられるよ,つにして、副学長の地位にまで昇りました。「学問は最高の趣味だ。その学問に没頭できる機会を与えられた幸運に、自分たちは感謝し、学んだことを通じて社会に貢献していかなければならない」
私たちにこう語っては、時を忘れて議論に熱中し、研究に明け暮れる。私はそんな彼の姿に、学者とはかくあるべしという一つの理想、そして、自由と規律を重んじる古き良き時代のイギリスを見るのでした。
ヒンズリー教授は、九八年にこの世を去りました。単なる歴史家としか見られていなかった彼の理論は、このごろではアメリカを中心に高ぐ評価されるようになりました。彼の残した著作は、今日でも十分通用する普遍性があります。
残念ながら、彼の学問のアプローチは日本ではまだ十分に知られていません。これは、日本の学問の世界が、歴史という本質的、普遍的なものの価値に対して理解が浅く、目先の情勢論や抽象理論ばかりに振り回されていることを物語っています。歴史といえば、文学部史学科でやるもの。そうした偏狭な固定観念に押し込められ、細々と重箱の隅をつつくような「日本的実証史学」の枠内で議論を繰り返しているのです。
ヒンズリー教授の説く歴史とは、もっとスケールが大きく、普遍的です。歴史を通じて、人間や文明の本質を学び、現代社会に応用していこうというものです。
日本は彼の示すような視点に立って、歴史を学び直さなければならない。彼の理念を少しでも日本に知らしめ、根付かせてゆきたい。そういう思いで私は研究に励み、後進の指導に努めています。新しい時代を切り拓いていく時、いま一度古い時代に目を向ければ、必ずやそこに新しい発見がある。このことに多くの日本人が気づくようになれば、日本の未来はきっと明るいものになる、と私は信じているのです。(「致知 2002-10月号」より)
1044 ハリー・ヒンズリー 中西輝政

コメント
ヒンズリー教授の件、ご紹介くださりありがとうございました。本望です。