ソ連との停戦交渉時、ソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については一切否定していた瀬島龍三氏(元大本営参謀で元伊藤忠商事会長)が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内府中市の自宅で死去した。95歳。富山県出身。
伊藤忠商事と亜細亜学園合同葬は10月17日午後1時から東京・築地本願寺本堂で。喪主は長女緒方繁代さん。
ところで日本財団会長笹川陽平氏は自らのブログで「瀬島さんはシベリア抑留中、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発した」という旧ソビエト共産党工作員の証言を紹介すると共に勲一等にも「異議」を唱えている。
http://blog.canpan.info/sasakawa
私は瀬島氏とは政治記者或いは外相秘書官として何度となく酒を酌み交わした仲。随分際どい事も聞いたが、抑留時代の事については遂に話をかわされて真相を聞き出す事はできなかった。逝去を報ずる新聞雑誌も「墓場に持って行かれた真相」と表現した。
笹川氏は『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀を賜る。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。
勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第2次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した』との「ウィキペディア」の記事を紹介した後、強烈な批判を展開。これほど率直な瀬島論は読んだことも聞いた事もない。
<ウィキペディアで興味を引くのは、(瀬島氏が)『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より
「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。
それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。>と紹介したあと次のように述べている。
<私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連検察側証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後、瀬島氏は、その天皇から勲一等瑞宝章を親授された。
日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。
賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。
かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。>
笹川氏のブログはさらに瀬島氏が多分、生き延びるために共産党に一時的にしろ「転んだ」ことを明らかにしている。
これを明らかにしたのはモスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏。旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。
<(モスクワで)自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。
ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた」
「ラーゲリで瀬島が三年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の一軒家に、女中もつけて、(東京裁判の)ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。
関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。>
瀬島氏は陸軍大学を首席で卒業した秀才。話は情熱的ではなくいつも箇条書きに整理して話す人だった。だから誰にでも分かりやすかった。金沢連隊の連隊旗手を命ぜられた。
連隊旗手は童貞でなければならなかった。その代わり一年の任期が終わったところで花街で筆下しをされた。「どうにも不潔で、月明かりの犀川で下半身を洗った」堅物振りを聞かせてもらった。だから生き延びるためには共産党万歳と叫ぶ事なんか平気だったろう。
だが純情なところも見えた。香港攻略に先立ってスパイの真似事をさせられた。偽の妻を娶り民間人を装ってイギリス軍を偵察した。
シベリヤから帰還後、彼女の郷里・津軽に尋ねた。しかし「既に石の下だった」。後に「津軽海峡・雪景色」を歌手石川さゆりさんから直に指導を受けた。
「瀬島評価」が分かれるのは、大本営参謀とソ連抑留の瀬島氏を知る者と、伊藤忠商事以降の瀬島氏しか知らない者の違いだろう。関東軍参謀に出されたのでしょう。
切れ者だが事務屋の域を出ないということだという批評が私のメルマガには多く寄せられた。しかし「ソ連による北海道占領と引き換えの抑留。生涯口に出せずに残念だったはずだ」という理解の投書も一通だけあった。『自由』2007年11月号「政界馬耳東風」再掲。2007・09・09
1051 笹川会長の瀬島龍三論 渡部亮次郎

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