米民主党が主導権を握った下院外交委員会は、唯我独尊的な決議を思いついたようにやりたがる。慰安婦問題が然り、今回のアルメニア人虐殺を非難する決議案などは、第一次世界大戦中のことである。それが今、唐突にでてくるのは何故か。
アルメニア人虐殺の史実を知ったのは十年前にロシア旅行をした時である。旧知の山田みどりさんが「モスクワでおや!と思う美女は、たいがいがアルメニア系」と教えてくれた。地図でみるとトルコの北にある国。世界最古のキリスト教国である。
アルメニアに足を運んだことがある山田みどりさんは「首都エレバンから南に望むアララト山の万年雪が素敵!」という。旧約聖書の創世記にノアの箱船の話がでてくるが、その箱船がたどり着いたのがアララト山といわれている。
だが伝説の美しさとは違ってアルメニアの歴史は、悲惨な亡国の嘆きに包まれている。紀元前一世紀にティグラン大王が現れて、アルメニア国家が成立、三〇一年にティリデテス二世がキリスト教を国教と定めた。歴史上、最古のキリスト教国家である。
しかし、その後のアルメニアは11世紀にビザンチンに征服され、13世紀にはモンゴル、17世紀にはトルコ、ペルシャの支配された。とくにトルコの支配は苛酷を極めて、キリスト教徒に対する迫害や虐殺が相次いだ。
難を逃れたアルメニア人は亡国の民となって世界に散らばっている。もともとアルメニア人は商才にたけていて、しかも芸術を愛する優れた民族である。離散したアルメニア系から指揮者のカラヤン、作家のサローヤンが生まれている。
近代に入って19世紀後半から20世紀前半にかけてのトルコによるアルメニア人の大虐殺は、第二次世界大戦でナチス・ドイツによって大量殺戮されたユダヤ人の数を遙かに上回るといわれている。
米下院外交委員会のアルメニア人虐殺非難決議は、アルメニア人社会で「トルコ政府によって虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」という主張に基づいている。
広義にはオスマン帝国からトルコ共和国に至る「トルコ国家」が、虐殺の一貫した責任を有するというアルメニア人社会の歴史的意識が根底にある。4月24日は1915年の虐殺が開始された記念日とされている。
これに対して1923年にオスマン帝国にかわって成立したトルコ共和国は「あくまで戦時下の強制移住によって結果的に大量のアルメニア人が死亡してしまった」という見解に立って、第一次世界大戦中にオスマン帝国全体で犠牲になった人々のうちの一部であると主張し対立している。
また第一次世界大戦の終結後、アルメニア人民族主義者はオスマン帝国領のアルメニア人居住地域を含むアルメニア国家の建設運動を起こしたが、このアルメニア独立の動きはロシアの赤軍とトルコ革命軍の攻撃の前に粉砕された。この戦乱のために多くのアルメニア人が命を落としている。
1918年オスマン帝国の崩壊によってアルメニアは独立宣言をしたが、ロシアの赤軍によって侵略されて、1920年にソヴィエト政権の支配するところとなった。首都エレバンにはレーニン広場、レーニン大通りの名称が残っている。
今回の米下院外交委員会の動きは、在米のアルメニア人社会を票田とする下院議員が中心となった選挙区事情が背景にある。日系米人のマイク・ホンダ下院議員が、反日中国人社会や反日韓国人社会を背景にして慰安婦決議を主導した同じ構造がある。
だが、米国とトルコは同盟関係を結んでいて、北大西洋条約機構(NATO)やイラクなどでの活動を通じ協力関係にある。米国はトルコ領を経由してイラクへの米軍物資を搬入している。
決議に反発したトルコが、国内の軍事基地の米軍使用を制限するなどの対抗策を講じるのは火をみるより明らかである。さらにはイラク北部で、反トルコ・クルド人を追ってトルコ軍が越境攻撃してくる可能性も出てきた。
その辺りを顧慮せずに選挙区事情で、他国の感情を逆撫でする決議を連発してくる米議会には超大国のおごりがあるのではないか。アルメニア人虐殺の史実は、歴史家に委ねた方がいい。
1054 アルメニア人虐殺を非難決議 古沢襄

コメント
はじめまして。盛岡にある熊谷印刷出版部・佐藤竜一と申します。ときどき見ています。岸丈夫については浦田敬三さんから聞いていました。
私が関わっているポータルサイト「ずっぱり岩手」で、このサイトを紹介させていただきました。どうぞよろしくお願いします。