これは沖縄への核兵器の再持込についてアメリカ大統領と密約を交わして早世した若泉敬氏が、その経緯のすべてを残した著書(文藝春秋社 1994年5月刊)のタイトルである。あれしか仕方なかったんだ、という意味だと思う。
密約は当時の総理大臣佐藤栄作氏の要望により、当時、京都産業大学教授だった若泉氏が単身、渡米。ニクソン大統領補佐官のキシンジャー氏との間で息詰まるような交渉の末、密約の文書化に成功。
佐藤総理は沖縄の核抜き返還を決めた1969年11月19日の日米首脳会談で「核抜き」に関する共同声明に合意した後、「カリフォルニア州サンクレメンテにある私邸の写真を見ないか」という大統領の案内で別室に消えた。通訳もつれず。したがって首脳会談に関する外交公式記録はここまで。
ところが若泉氏の著書に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した。だが若泉氏は「あれしか策は無かったのだ」と言って死んだ。
ここまでは毎日新聞が1997年1月8日付けでワシントン発時事通信電の記事で伝えていたが、あれから10年経った2007年10月7日付産経新聞はやはりワシントン発時事電で「沖縄返還後の核再持込み 密約明示の米公文書発見」と報じた。
両首脳が別室に消えた、何があったかわからない、とでもいう通訳記録ではなく、密約文書の存在を示すものが出てきたというのである。
<1972年の沖縄返後に米軍が核兵器を再び持ち込む事を認めた日米間の密約締結を示す公文書が6日までに発見された。
この問題を担当した当時のキッシンジャー米大統領補佐官がニクソン大統領宛に書いたメモなどで、核密約を明示した交渉当事者の公文書が発見されたのは初めて。
密約の存在について否定を続ける日本政府に対して決定的な証拠が突きつけられた恰好だ。(渡部註:交渉の経緯はともかく、密約文書は佐藤首相から外務省に伝達されたはずだから、いずれ時期が来れば公開される可能性、無しとしない)。
見つかったのは、最近、機密指定を解除された69年11月12,13日付のメモなど。日本大学の信夫隆司教授(日米外交史)が今年8月に米国立公文書館で発見した。
佐藤栄作首相の密使として派遣された若泉敬氏(当時京都産業大学教授、故人)が94年に出版した「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文藝春秋刊)によると、69年11月19日からの日米首脳会談を前に、若泉氏と同補佐官は沖縄から撤去される米国の核兵器を再び持ち込むための方策と摩擦になっている繊維問題についての交渉を続けていた。
両日のメモは若泉氏との話し合いを踏まえた大統領への報告になっている。メモの標題は「沖縄返還後の米国の核持込と繊維問題に関する日本との秘密交渉」。
この中でキッシンジャー補佐官は首脳会談の進め方を記した日米間の「申し合わせ」について「沖縄への核兵器持込に関する秘密の日米合意に伴う佐藤首相とあなた(大統領)の台本となるべきゲームプランだ)と説明している。密約を意味する「共同声明の秘密議事録」という表現も使用された。>
ここで言う繊維交渉とは、日本製綿製品が米国へ過剰に輸出され、米業界が音を上げて大統領に「善処」を要求したため大統領は佐藤首相に「善処」を要請。
対して佐藤首相は「前向きに検討」。本人は官僚上がり独特、口を濁した心算が、外務省の通訳が直訳したため、大統領は喜んだ。しかし約束は守られないとカンカン。大平も宮澤も通産大臣として手が出ず。
結局、通産大臣になった田中角栄氏が福井県中心の繊維業者から機織機を買い上げるという奇策で急転直下、解決。ニクソンの田中株は急騰、次期総理の座を獲得した一瞬だった。
<わかいずみ けい氏は1996年7月27日午後2時50分 がん性腹膜炎のため、福井県鯖江市つつじケ丘町9-13の自宅で死去、66歳。故人の遺志により通夜、葬儀・告別式は行わない・・・>朝日新聞28日付。著書を上梓して2年後だった。
<著者の真摯な唯一の希望は「本書を、願わくば、心ある読者――とりわけ若い世代の方々――に末永く読み継いでいただきたいという事である。そのため著者は将来とも絶版に葉しないで欲しいと要請している。小社としては、最善を尽くすつもりである。1994年5月15日 株式会社 文藝春秋>2007・10・12
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