1076 初の行政主席選挙 渡部亮次郎

沖縄がアメリカに占領されていた末期の1968年11月10日に第1回行政主席通常選挙が行われNHK政治部から田辺昌雄先輩記者と共に取材に派遣された。
アメリカの領土だったからパスポートとビザの発給を受けた。円は通用せず、1日あたり38ドル(1ドル=360円)を支給され、もちろん日航機で赴任した。
岩手県の盛岡放送局から政治部に着任して未だ4年目の若造がなぜ指名されたかの説明は聞かなかったが、地方時代に様々な票読みで実績があったからかもしれない。
琉球政府の行政主席。アメリカ占領中の沖縄を統括するアメリカ側の役所は「高等弁務官」。その下に沖縄人による役所として「行政府」が置かれ、そのトップが行政首席であった。
また管轄するする日本政府の役所は総理府(当時)。政治記者の初期の頃、同和事業などと一緒に担当させられたので、沖縄情勢をズブの素人よりは知っていた。
その頃の内閣は佐藤栄作氏で「沖縄の返還」を最大の「公約」に掲げており、まず「教育権」の返還を掲げ、その次に行政主席の選挙による選出をアメリカに要求していた。
その結果、住民の直接選挙による選出が許可されたわけである。39年も前の出来事。作った資料はとっくに廃棄したし、写真もどっかへ行ってしまった。いつも利用している「ウィキペディア」には記録があるかも知れない。
案の定あった。それによると、公示日1968年10月21日、投票日1968年11月10日とある。有権者数515,246人 (男性:235,299人、女性:279,947人)
琉球空港に降り立ってみると猛烈に眩しい。タラップの先に立っている女学生にスネ毛が長く生えていて、風になびいているではないか。まずサングラスを買った。
沖縄支局にいる駐在員の世話で下宿探し。ついては本土に引き揚げていったナントカ製薬駐在員の世話を焼いていた女性の世話になったらどうかという色っぽい話もあったが、遠慮。1日2食ドル5ドルの6畳間に落ち着いた。
毎朝、味噌汁が出るが、大豆の味ではない。蘇鉄の実だという。変った味だった。魚が殆ど食卓に上らなかった。鶏か豚ばかり。
高等弁務官事務所を訪れて米軍基地へのパスを申請。身長、体重、髪の色に加えて「瞳の色」は黒と申請したらミスター・ワラナベ、ユーアー ナット ブラック。ブラックは沖縄人。日本人はブラウンとの御託宣。知らなかった。沖縄人は大和民族では無いとは。
折からベトナム戦争。嘉手納基地から爆撃機が大量の爆弾を抱えて北ベトナム爆撃にひっきりなしに飛び立つ。そのたびに国道が交通止め。タクシーの頭上すれすれに離陸して行く。爆音が腹に響くのを知った。
立候補者は届け出順
(1)西銘順治(にしめ じゅんじ)沖縄自由民主党総裁 琉球 島尻郡知念村(現・南城市)出身。
(2)屋良朝苗(やら ちょうびょう)無所属 沖縄教職員会会長 琉球 中頭郡読谷村出身
ほかに公認会計士が立ったが「本土復帰反対、独立」を主張し泡沫扱い。事実は西銘・屋良の一騎打ちであった。
主な争点
行政主席の直接選挙制が導入されて初の選挙であり、本土の政治家も多く駆けつけて選挙戦が展開された。そして、近い将来に実現されるであろう本土復帰が最大の争点になった。
西銘順治候補は「本土との一体化」を掲げて日米協調路線の下での復帰を訴えた。一方、屋良朝苗候補は「即時無条件全面返還」を掲げた。野底武彦候補は復帰そのものに反対し、琉球の独立を訴えた。
タクシー雇い上げが1日10ドル。本島をぐるぐる廻ろうにも目当てが無い。立会演説会に顔を出すと途端に沖縄弁で喋りだすから全くわからない。
選挙管理員会に顔を出したら離島での繰り上げ投票や開票はやらない、という。記者さん、投票が済めば、いつ開票しようが結果は決っているのだから急ぐ必要はありません。
本土ではTVやラジオを通じて一刻も早く結果を知りたがっていると説得してやっと了解してもらったものだ。どっちが役所かわからない。
飲み屋の主人やなんかを相手に話を聞くと西銘は問題にならないという。「日の丸掲揚運動を主張する屋良先生の勝利間違いなし」の話ばかり。遂に田辺さんには「4万差で屋良勝利」と申告。
翌朝、高等弁務官事務所に顔を出したら「NHKは4万差で屋良勝利と放送したが、根拠は何か」と聴かれた。予測をNHKが放送するわけが無い。本社への電話を盗聴したのだ。
そういえば毎朝、タクシーの後をナショナル電気洗濯機と書いたワゴンが尾行してくる。沖縄人ダ。アメリカ軍に雇われて尾行しているのだという。
弁務官事務所に抗議したら「新聞の反米記事は空港で新聞の全部を没収して済むがNHKの電波は阻止できない。だから発信元を警戒するしかないのだ」とあっけらかんなものだ。
選挙結果
屋良朝苗 237,643票(当選)
西銘順治 206,209票
野底武彦 279票
(投票率 - 89.11%)
その差 31,434.予想の4万よりは少なかったが「合格」と部長に言われて琉球を後にした。11月10日、まだ半袖のポロシャツだった。
屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年12月13日 – 1997年2月14日)
明治35年(1902年)12月13日生まれ。昭和5年(1930年)に広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業する。
その後沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第1高等女学校、台南州立台南第2中学校、台北第1師範学校などで教職をつとめた。
沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。
主席在任中は、復帰を円滑に進めるために日米両政府の折衝などを進めていったが、その道のりは険しく、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか「縦じわの屋良」と呼ばれるようになった。
復帰後も昭和51年(1976年)まで、沖縄県知事として在任した。同年の選挙にも出馬を要請されたが、固辞し退任した。
知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。実直な人柄であった。
沖縄教職員会はその後、教職員組合と名称を変えたが、内実は屋良氏の頃とは様変わりし13,307人を110,000の集会と偽って発表して恥じない団体になった。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2007・10・17

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