1105 生命尊重村長の女房役の葬儀 古沢襄

西和賀町の浄円寺で故佐々木吉男元沢内村助役の葬儀が25日行われた。このお寺には「生命尊重」の旗印を掲げた深沢晟雄元村長の墓がある。深沢氏の女房役だった佐々木氏の旅立ちを送るのにもっとも相応しい葬儀の場となった。
本来なら私も葬儀に駆けつけて自ら弔辞を読まねば立場にある。西和賀町の人たちも、それを望んでいた。だが骨髄腫におかされて療養の身をかこつ私には、それが出来ない。乞われて弔辞をしたためた。西和賀町の高橋定信副町長に私の弔辞を代読して頂いた。
西和賀町の町民から早速「古沢翁、死ぬなよ」と激励のメールを頂戴した。まだ旅立つつもりはない。杜父魚ブログで毒舌を書き連ねる元気を失っていない。秋が去り、冬が訪れ、春を迎えたら浄円寺で深沢元村長と佐々木元助役の墓詣でをするつもりでいる。
                弔辞
                          杜父魚塾 塾長 古沢 襄
佐々木吉男さん。私にとって父のような存在であった吉男さんが旅立たれて、深い悲しみに閉ざされております。吉男さんにお会いしたのは平成九年の五月でした。茨城の私の家に訪ねてこられて、作家の一ノ瀬綾さんも加わって一夜の楽しい歓談でした。
その夜「玉次郎さんは男気のある秀才でガンシタ」と父・古沢元のことを話して頂きました。吉男さんは新町小学校で父と一緒だったといいます。四歳違いますが、父は高等小学校までおりましたので、四年間机を並べたことになります。
それ以来、沢内村を訪れる私は、いつも吉男さんと同じ宿、同じ部屋で吉男さんの昔語りを聞くのが、何よりもの楽しみになりました。時々「ほら、玉次郎さんが見ている」と天井の片隅を指して、それから沢内村の長い苦難の歴史を語ってくれました。
深沢村長の女房役として、助役の吉男さんは深沢村政の隠れた功労者です。惚れ込んだ人には、身を挺して尽くすのが、吉男さんの身上でした。そして興が乗れば、西田佐知子の「アカシヤの雨に打たれて・・・」の唄を艶やかな声で唄ってくれました。
吉男さんは斗酒なお辞さずの酒豪でした。米寿までは一升酒を飲んでも酔わずに、頭がなお冴える人でした。画家の小角(こすみ)又次さんと湯本で飲み比べをしたことがあります。さすがの小角画伯が「うわばみの吉男老には敵わない」と音をあげてしまいました
「吉男さんの肝臓は日本一」と加藤邦夫先生から折り紙をつけられたのが、何よりもの自慢でした。銀河高原ホテルで吉男さんの米寿の祝いをしたことがあります。米寿になったのだから、吉男さんにはあまり飲ませては身体に障ると回りの者が心配して、吉男さんの前にはお湯の入ったお銚子を一〇本並べておきました。
隣に座った私には、お湯のお銚子を勧めながら、自分はしっかり本当のお酒を楽しんでいました。時々、トボケタ振りをしてみせる茶目っ気豊かな吉男さんでした。お湯入りのお銚子をどうやって見分けたのか、今も謎です。カンが鋭い人でしたが、それを表に出さない達人でした。
年をとったら「ボケた振りをするのが、長命のコツ」と私に教えてくれたこともあります。五月に吉男さんとお会いしましたが、本当にお元気でした。ボケた振りをしながら、百歳まで生きる人だと信じていただけに、吉男さんの早過ぎる旅立ちが残念でなりません。
今は冥界で深沢村長、古沢元、新劇俳優の森幹太さんらと車座になって、酒を飲んでいるのでしょう。今度は吉男さんが天井の片隅から西和賀町の行く手を案じながら、見守っていてくれていると思います。ご心配をかけません。吉男さんのご期待に添うべく、遺された者が一生懸命に頑張ります。どうか安らかにお眠り下さい。

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