1115 北アルプスの山小屋から下山(1) 古沢襄

北アルプスの剣岳・池の平小屋の管理人になった菊池今朝和(あさと)氏が下山した。新日鉄の会社員だった菊池氏が定年を迎えて、北アルプスの山小屋の管理人になると相談された時には、少なからず驚いた。
新日鉄時代から閑さえあれば山に登っていた日本山岳会の会員だが、北アルプスの山小屋の管理人になるほど山に魅せられた人だとは思ってもみなかった。念願の管理人となってことしの山開きとともに北アルプスに籠もった。
北アルプスの阿曽原温泉から剣岳へ向かう北方稜線に「阿曽原温泉小屋」、「仙人温泉小屋」、「仙人池ヒュッテ」、「池の平小屋」と四つの山小屋がある。仙人池ヒュッテから阿曽原間の登山道は、けっしてやさしい登山道ではないが、それだけに周囲の眺望は素晴らしい。高山植物の宝庫といえると伝えてきている。
よほど北アルプスが気に入ったのだろう。冠雪してギリギリまで山小屋で頑張っていたが、ようやく下山してきた。下界でしばしの冬籠もり。心は来年の山開きに飛んでいると思う。
菊池氏とは不思議な縁で結ばれた。私の曾祖父に当たる為田文太郎氏(沢内村の初代村長)が北アルプス開発の先駆者だと言って拙宅に訪ねてきた。曾孫の私が何か資料を持っていないかと尋ねられた。
文太郎は万延元年七月二十三日に西和賀町沢内新町の旧家で生まれた。鈴木コトと結婚して長女ヒテ、長男文造、次女トヨ、次男荘吾をもうけた。ところが大変な艶福家で俗にいう七竈(かまど)、七人のお妾さんがいた。北は青森から福島、千葉、埼玉。南は神戸。さすがに正妻や二人の娘の目があるので、岩手県にはお妾さんを置いていない。
明治二十八年四月二十五日に妻コトが病没した。私の曾祖母に当たる血縁の人である。明治三十一年、中沢ヨネと再婚。七人のお妾さんの中で文太郎が一番愛した佳人である。
ヨネさんは会津藩士の娘。朝敵となった会津の父親は憤死している。誇り高き会津士族たちは、その日から食うに困った。ヨネさんは会津芸者になって一家を支えていたのを文太郎が見染めた。
再婚したヨネさんとの間に三女シケ、四女トシ、五女ツネ、六女フミを次々ともうけている。文太郎が偉いには、七人のお妾さんの子供たちは、すべて入籍して為田姓を名乗らせ、男女の区別なく高等教育を施したことである。
文太郎の才覚を認めた後藤新平が東京市長の後継者の一人に擬しているが、文太郎は市長の給料では沢山の子供たちを養えないと断って実業家の道を選んだ。そして北アルプスの大黒鉱山に入山して、これを第二の足尾銅山にする夢に賭けている。富山から大黒鉱山に至る登山道は文太郎が造ったものである。
正妻の死後、文太郎は東京・四谷の後妻・ヨネと住んだ。正妻の二人の娘たちはヨネさんと四人の娘たちを天敵のごとく憎んだ。私の祖母・トヨは古沢元と岸丈夫兄弟にヨネ一族とは付き合ってはならないと厳しく説教している。岸丈夫はトヨさんに従ったが、古沢元は母親に隠れてヨネ一族と親しく付き合っている。
六女フミは横浜のフェリス女学院で二番の才媛だったが、海軍兵学校を出て新米少尉となった平出英夫氏(開戦時の海軍報道部長)の妻となった。平出少尉はふらりとフェリス女学院にきて、校長に面会を求めている。その言い草がふるっている。「卒業する一番の女性を紹介してほしい。妻に迎える」
校長は驚いたのであろう。「実は一番の女性は日本郵船の御曹司に嫁入りすることが決まっている」と断ったら「二番の女性を紹介してくれ」とねばったという。当のフミさんが私に笑いながら語ってくれた話だから本当のことなのであろう。
戦後、フミさんは私の母と同じ東京・奥沢に住んでいたので、母はフミさん宅によく遊びに行っていた。フミさんも甥の古沢元の嫁ということで「まきちゃん、まきちゃん」と歓迎してくれた。フミさんの影響もあって私は長女をフェリス女学院に進学させている。
菊池今朝和氏とは徹夜で酒を酌み交わしながら、文太郎一族の物語に興じたものである。(続く)

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