今朝の新聞やテレビで”大連立”の言葉が踊っている。自民党と民主党の連立政権のことだが、そこからはみ出す公明党や社民党、共産党、国民新党は疑心暗鬼に駆られる。次の総選挙で民主党が過半数を制し、民主党が政権を握ると本気で信じている議員、党員からも戸惑いがでている。
参院選で自民党が大敗を喫して以来、自民党内から大連立構想が論議されていた。だが大連立には、それを具現化する”役者”が欠かせない。政界を見渡したところ、その役者は小沢一郎氏しかいない。拮抗した政党が単純に争うのは簡単だが、手を握るとなると、お互いに勝手気ままを許さない”剛腕”と”知恵”が必要になる。
大連立の先には”新保守合同”もみえてくる。保守の歴史は、強力な保守一党論と政権交代が可能な保守二党論がある。もともと三木武夫、松村謙三らが保守二党論を唱えていた。吉田自由党に対峙した改進党系の理論である。
昭和30年の保守合同ができたのは三木武吉という”立役者”がいたからだ。私は東京・神楽坂にある料亭「松ヶ枝」に何度か行ったことがある。この松ヶ枝で三木は保守合同の構想を練っている。
松ヶ枝の女将は三木の愛人だったという。お竹さんといったが亡くなって、妹のお梅さんが経営者になったが、昭和40年代に松ヶ枝はなくなった。松ヶ枝とお竹さん、お梅さんをかけて「松・竹・梅」という話を聞いたのは昭和35年の頃であった。
脱線ついでにいうと、三木は立会演説会で、愛人を三人も囲っていると攻撃された。次ぎに立った三木は「愛人三人は間違っている。五人が正しいが、誰一人捨てた事がありませぬ」とやってのけた。
ウイキペデイアで「松・竹・梅といわれた三人の妾を囲い、松子には神楽坂で待合茶屋を持たせた」とあるが、お竹さんの間違い。明治時代から続いた松ヶ枝を知らない人が書いたのであろう。松ヶ枝を松子さんとしたのはご愛嬌。
三木の生涯は吉田茂を倒す権謀術策で彩られている。寝業師ともいわれた。鳩山一郎と親しく、反吉田の新党結成に乗り出して日本民主党を結成した。鳩山総裁、岸信介幹事長のもとで総務会長に就任している。
昭和30年の総選挙で鳩山ブームに乗って日本民主党は自由党を押さえて第一党になったが、三木はこれに満足していない。すでに医者からガンの告知を受けて、余命三年といわれた身で保守政党の結集に乗り出した。これには民主党内の三木武夫、松村謙三らが保守二党論を唱えて猛反対した。三木と手を携えて保守合同を目指した岸も一時はサジを投げている。
三木は鳩山内閣の存在が保守合同の障害となるなら、鳩山内閣総辞職も辞さないと発表した。まさに鬼気迫るものがある。鳩山首相も涙ながらに内閣総辞職を口走り、一気に保守合同の気運が盛り上がった。
今からみれば、寝業師・三木のお芝居だったとも思えるが、余命三年の三木のやることだったから迫真力が違った。そこには保守二党では政争に明け暮れて、政策の実行がままならないという政局観があった。これは今でも当てはまる。
五五年体制の弊害がいわれるが、その半面、保守合同が出来たからこそ、戦後日本の急速な復興と、世界第二の経済大国への道が開けたといえる。保守二党は利点もあるが、弊害もある。それが今、問われているのではないか。
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