1158 サイデンステッカーさんの時計 宮崎正弘

エドワード・サイデンステッカー氏といえば、『源氏物語』の名訳家として世界的に名高い。
また川端康成『雪国』『山の音』や、三島由紀夫『天人五衰』などを翻訳、とくにノーベル文学賞授賞式には川端氏に同行して記念講演の草稿、「美しい日本のわたし」を直前まで訳出に追われた逸話は有名だろう。
江戸情緒と下町を愛した。湯島のマンション近くでは下駄履きのことも多かった。湯島から上野公園を散歩中、不忍池で転んで、そのまま意識を失い、四ヶ月入院したが、帰らぬ人となった。
転倒したのは四月二十六日の午後六時半で、時計はそのまま止まっていた。半年が経った。11月4日の日曜日は、そよ風と太陽に恵まれ、上野公園は家族連れ、アベック、行楽客にごったがえしていた。
公園のなかにある上野精養軒は、ちかくに住んだサイデンさん(誰もがサイデンステッカーという名前が長いので、こう略した。本人もそう呼ばれることを喜んだ)が、好んだレストランだったが、同時に式場を兼ねた由緒のある建物。ここで、八月になくなったサイデンさんをしのぶ集いが行われた。すぐ真下の不忍池で転んだからだろう。
参加者ひとり、ひとりが入り口で遺影に献花した。会場には静かな音楽が流れていた。『雪国』の英語の朗読もあった。
遠く米国からは甥と姪にあたるピートとパトりシアから長いメッセージが届いた。多くの教え子、文学の友人、学者が詰めかけた。
舞台はおおきな花々で遺影を取り囲み、スクリーンには在りし日のサイデンさんのスナップが多彩に映し出された。
愛猫は「はなこ」だった。日本にいる間、サイデンさんの傍を離れなかった。スナップのなかには見覚えのある友人達との笑顔がいっぱいだった。
サイデンさんを最後まで介護したのは山口徹三氏だった。彼が追悼会の準備をこなした。緊急に編まれた随筆集(私家版『サイデンステッカー』)も配られた。
故人が締めていたネクタイは百数十本。陳列後、希望者に形見分けとして配られた。わたしは“サイデン・ネクタイ・コレクション”のなかから一番派手なものを選んだ。
そうだ。サイデンさんは、ネクタイが好きで、一度、或るパーティでネクタイ論議をやった。私がまだ三十そこそこの頃で、派手なネクタイをしていたのをサイデンさんがめざとく見つけ、「このデザインは何ですか」と絡みだしたのだ。喧嘩早い人だった。
最初に友人だった高橋治(詩人、直木賞作家)氏がサイデンさんとの想い出を、ぼそりぼそりと語った。
献杯は加瀬英明氏が音頭をとった。会場には知り合いの編集者や石原萌記『自由』社長、村松英子さんの顔もあった。
僚友だったドナルド・キーン氏の弔辞。
「いまから六十五年前にコロラドの海軍日本語学校で知り合った。三回生下だったのがサイデンさんだった。頭脳明晰で会話も弾み、仲良くなり、一緒に日本語を勉強した。戦後、赴任地が異なっていた間は、文通をしていた。
その後、わたしは京都へ留学、サイデンさんは東京の下町(文京区林町)の小さな家だった。京都に来たときはサイデンさんが私の家に、わたしが東京へ行くときは彼の家に泊まった。しもた屋で朝、「納豆ぅー」と叫ぶ声がした。豆腐を売る声もあった。下町で庶民の生活の臭い、サイデンさんは、もっとも好きだったのだ。
京都は綺麗だが、活気がない、とサイデンさんは言っていた。好きではなかったのだろう。古典落語が好きだった。わたしは京言葉を勉強していた。お互いに『蜻蛉日記』などの訳語のことで議論しあった。
よくわたしとサイデンさんを「ライバル」と言うマスコミがあったが、わたしは全然、そんな風に認識したことがなかった。お互いに日本文学を志しても、カバーする分野が違った。別の分野だった。
その後、コロンビア大学で空席ができたので、サイデンさんと交替で受け持った。毎年春(1-5月)をわたしが、秋(9-12月)をサイデンさんが担当した。だからコロンビアでは同じ家に住んで、お互いに家具を置きっぱなしにしていた。近年、日本文学を志した同士らは、随分と不在になって、その不在は、深いところで物足りない。サイデンさんの追悼会に、こんなに多くの人にきていただいて、私にとっても慰めになる。」
▼志賀直哉、小林秀雄を認めなかった
文壇を代表して丸谷才一氏が挨拶した。
「サイデンさんの功績は川端、谷崎、太宰を海外に認知させたこと。その選び方、訳しかたが、読者を豊かにした。源氏物語を世界にしらしめた。往時の日本の文檀は、志賀直哉が谷崎潤一郎より上という位置付けだった。
私小説優位を覆して、文学のレベルの領域を確立した。漱石を絶賛し、小林秀雄を認めなかった。その点でわたし(丸谷)とサイデンさんは共通していた。荷風には批判的でもあったが、サイデンさんの死に方は荷風より荷風らしい。人生そのものが文学的である」。
しかし、サイデンステッカーは志賀直哉『城の崎にて』を訳している。丸谷氏もキーン氏も意図的にか、三島由紀夫の名前を出さなかった。
 
生花と好きだったお酒に囲まれたサイデンステッカー氏追悼会は会場がぎっしり満員になった。
会場には田中健五、粕谷一希氏ら懐かしき編集者も大勢いたが、知らない顔も多い。下町の散歩仲間、居酒屋の常連、そして落語の常連だという。なかにテレビ朝日外報部の知り合いがいるので、「?」。
「上野の居酒屋でよく一緒になり飲んだ仲ですよ」と自らの解説があった。小生自身は学生時代にやっていた『日本学生新聞』や、その後、雑誌『浪漫』に寄稿してもらったり、憂国忌第一回のときはハワイに電話をかけて、メッセージを頂いた。一昨年は花見で屋形船に揺られた。九段会館のシンポジウムでは壇上にも昇ってもらった。
途中で騒ぎが持ち上がった。サイデンさんの翻訳本や写真が展示された陳列台におかれた時計が動きだしたのである。
最初に発見した人に誰もが「嘘だろ」と言った。会は四時半から始まり七時十五分ごろ終わった。六時半でとまっていた時計が、六時半に動き始め、7時十五分をさして止まった。追悼会のあいだ、まちがいなくサイデンさんは、あの会場に居たのである。
帰宅後、私家版のサイデンさんの随筆(原文は93年11月号の「うえの」)を読んだ。「わたしは幽霊の存在を信じる。」と書かれていた。(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」より)

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