中島洋次郎・・・NHK記者から群馬二区で衆院議員に当選、防衛政務次官や自民党国防部会長を歴任したが、1999年に東京地検特捜部に政党助成法違反容疑で逮捕された。いわゆる別件逮捕で、特捜部の狙いは救難飛行艇開発をめぐる受託収賄罪。
この罪で東京地裁で実刑判決を受けている。2000年9月に東京高裁で実刑判決を受け、最高裁に上告したが、最終結審を前にして2001年1月6日に都内の自宅で首吊り自殺した。ショックで精神不安定だったという。四十一歳だったと思う。
私たちの世代は戦前に日本最大の飛行機製作会社となった「中島飛行機」の名を忘れることが出来ない。日本陸軍の「隼(はやぶさ)」「鍾馗」戦闘機、「呑龍」重爆撃機 の雄姿に心を躍らせ、日本海軍の「月光」夜間戦闘機、「彩雲」艦上偵察機のことも心に刻み込まれている。
この中島飛行機の創業者は中島知久平氏。亡くなった中島元代議士は孫に当る。父も政治家で、文相も勤めた中島源太郎氏。人も羨む名家の御曹司で若き防衛族議員だったが、それだけにひ弱なところがあったのかもしれない。
清和会に属していたが、私が清和会担当の頃は十一歳の子供だったから知る由もない。生きていれば四十八歳、私の長女とほぼ同年代に当たる。防衛省をめぐる贈収賄疑惑の最中に六年前の痛ましい事件を思い出したところである。
戦後、中島飛行機は多くの技術者が参加して富士重工業という自動車産業に変身している。私が初めて乗った愛用車はスバル360。運転席の大きさが中島飛行機で造った戦闘機と同じだと言われて愛着を持った。
富士重工業が日産自動車と合併した後は、ニッサン・ローレルの六気筒エンジン車を乗り回してきた。もっとも外人社長になったので、ホンダのリジェンド六気筒エンジン車に宗旨替え。少年時代に憧れた中島飛行機の名戦闘機の記憶も薄れがちとなった。
中島飛行機が造った軍用機(以下、ウイキペデイアによる)
日本陸軍向け
戦闘機
1931年 (昭和6年) 九一式戦闘機
1937年 (昭和12年) 九七式戦闘機
1941年 (昭和16年) 一式戦闘機 「隼」
1942年 (昭和17年) 二式単座戦闘機 「鍾馗」
1943年 (昭和18年) 四式戦闘機 「疾風」
1945年 (昭和20年) キ87 試作高々度戦闘機
爆撃機
1940年 (昭和15年) 百式重爆撃機 「呑龍」
特殊攻撃機
1945年 (昭和20年) キ115 特殊攻撃機 「剣」
日本海軍向け
戦闘機
1936年 (昭和11年) 九五式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(ライセンス生産:設計元である三菱重工業より生産機数が多く、全体の約2/3を量産した)
1942年 (昭和17年) 二式水上戦闘機
1942年 (昭和17年) 二式陸上偵察機/1943年 (昭和18年) 夜間戦闘機「月光」
1943年 (昭和18年) 十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
攻撃機
1937年 (昭和12年) 九七式艦上攻撃機
1938年 (昭和13年) 十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
1943年 (昭和18年) 艦上攻撃機「天山」
1943年 (昭和18年) 十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
陸上攻撃機「富嶽」(計画)
偵察機
1936年 (昭和11年) 九五式水上偵察機
1944年 (昭和19年) 艦上偵察機「彩雲」
輸送機
1940年 (昭和15年) 零式輸送機(ダグラス DC-3) 昭和飛行機との並行生産
特殊攻撃機
1945年 (昭和20年) 特殊攻撃機「橘花」(試作)
中島飛行機の歴史
1917年(大正6年):中島知久平が海軍を退官後、群馬県尾島町(現太田市)に「飛行機研究所」を設立。
1918年(大正7年):川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更。
1919年(大正8年):川西から買取り、川西が経営から撤退。「中島飛行機製作所」に商号変更。陸軍から20機を受注。
1931年(昭和6年): 中島飛行機株式会社と改称
1940年(昭和15年):海軍機専用組み立て工場、中島飛行機小泉製作所開設。東武小泉線西小泉駅が玄関駅として利用された。
1941年(昭和16年):中島飛行機の一式戦闘機が、陸軍に正式採用される。
1945年(昭和20年)4月: 第一軍需工廠となり、事実上国営化された(会社そのものは存続)
1945年(昭和20年)8月: 太平洋戦争敗戦により全工場返還を受け、社名を富士産業に改める
1950年(昭和25年)5月: 解散。
こうして日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げるが、米軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ各地の工場は灰燼に帰した。敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないように12社に解体された。
三鷹研究所跡地大半は国際基督教大学(ICU)となった。武蔵製作所はNTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野中央公園、武蔵野陸上競技場(武蔵野総合体育館を併設)などになっている。
その後、技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
1236 中島飛行機の「隼」「鍾馗」「呑龍」 古沢襄

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