<日中外相会談で対中円借款終了を確認 交流促進で一致
「第1回日中ハイレベル経済対話」出席のため訪中している高村外相は1日午前、北京の中国外務省で楊外相と会談した。
年末にも予定されている福田首相の訪中や、胡錦濤(フー・チン・タオ)国家主席の来日など首脳間交流をさらに進めることで一致する。主席は来春、来日する方向だ。
両外相は中国に対する07年度の円借款供与について書簡を交換。対中円借款の新規の供与はこれで打ち切られることが正式に決まった。
07年度の供与は総額約463億円。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた。> Asahi Com2007年12月01日13時12分
対中円借款は中国の改革・開放政策を支援するとして、1979年に訪中した大平正芳首相(当時)が供与を約束。
ただ中国の急速な経済発展や、他の途上国へ中国が支援している状況などを踏まえ、01年の「対中国経済協力計画」で対象を環境保全や人材育成、内陸部の貧困克服などに絞り込む方針を決定。
04年度の供与額は859億円で、前年度より約11%減少している。 (東奥日報「ニュース百科2006年6月3日)
国交正常化のため初めて訪中した田中首相らは初めは中国が戦争倍賞を3兆円ぐらい要求するものと思っていたが、予め周恩来総理は要求しないと言ってきたため正常化に乗ったのだった。
その6年後、国交正常化に伴う細々とした約束を重ねるための基礎となる日中平和友好条約が締結されたが、その時は借款とかODAの話は出なかった。
おそらく78年10月に日本を初めて見たトウ小平が言い出したのが借款だったと思われる。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた対中借款が漸く終わる。感慨一入だ。
この問題について、基になった日中平和友好条約の締結の前後、北京の日本大使館で公使を務めていた伴正一さんが条約締結10周年の記念講演で裏の事情を紹介している。
講演はちょうど10年目の昭和63年8月13日、会場は高知阪急ホテル。伴氏は外交官を退官後、この年の5月に(財)日中友好会館の理事長に就任、祝賀会代わりに条約締結とその後の裏話を公表したもの。条約締結には私も参加したが、伴さんの話は初めてだ
http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm
<この条約というのは、田中角栄、周恩来両首脳が実現させた六年前の共同声明、日本と中国の運命を決するもの、また台湾の運命を決するものでもあった歴史的な共同声明に比べますと、ただそれを整理しただけといえばいえなくもないものがございます。
しかし妙なもので、それから日中両国の政府間の往来や交渉ごとはそれまでの数倍の頻度で盛んになってまいりました。
条約ができたとたんにまるで堰を切ったようにいろんな交流、というより〝橋の構築〝が始まるわけです。
その中で一番印象に残るのは留学生問題でした。私が行った当初の留学生というのは日本が8人で中国が7人とか、あるいは10人にしょうかとか11人とか、こんなケタの話で向こうの教育部と交渉していた。
それがある日、教育部から呼ばれ、一挙に500人引き受けてくれんかという。500人というと、今ならなんだそのくらいと思われるかもしれませんけど、その当時、中国留学生500人というのは腰を抜かすような数だったんです。
その上、条件がふるっている。学部留学生も実は送りたいという。「大丈夫ですか」と余程出かかった。もう1つは下宿は1人でもよろしい。集団でなくてもよろしいという。
これも今考えれば何でもないことですが、その時点までの中国はどんなだったかといいますと、留学生は街へ出るのも1人ではいかん、2人で歩け、です。相互監視です。
日本へ来ている中国留学生が訪ねていい家庭というのはリストがあって10人か20人しかない。それ以外の日本人のところへ訪問してはまかりならんというきついお達しがあった。それくらい1人ひとりに資本主義のバイ菌がつかんように厳重な監視体制を敷いていたわけです。
「学部留学生なんて、高校出てまだ頭の柔らかい。4年もおったら日本人になってしまいますよ。大丈夫ですか。1人で下宿なんかしよったら何が起こるかしれませんよ、大丈夫ですか」。こちらが心配になってそういう言葉が出かかったわけでございます。
驚天動地の留学生大量派遣というのが、これから始まるわけです。今、6,000人ですか。
もう1つは条約が結ばれて1年経ってから出てくることですけれども、「金を貸してくれ」といい出した。これもこっちは「あっと驚く為五郎」。
ということは、その1、2年前まで、中国の要人はいろんな宴会の挨拶などで、我が中国はよその国の政府から金を借るようなことは絶対にしない。これは中国の国是であるといって威張ってたんです。
中国が日本政府の金を貸せなんていってくるなど誰一人思っていなかった。驚きでしたね。
その時言ってきた額は、円に直しますと7,000億円ぐらい。7,000億円貸したら、インドネシアもタイもフィリピンもどこへも1銭も貸せなくなる。財布全部はたいても中国の要望に応えられん。当時はですよ。
ところが向こうから見れば、「何言ってやがるんだ、日本はもうお金持ちになってるじゃないか、賠償いくら負けてあげたと思ってるか、7,000億円なんてそれからしたらはした金じゃないか。15兆円になるか20兆円になるかわからん」と口にこそ出さないけれど、向こうから見りゃ7,000億円なんてはした金に見えるわけでしょう。
中国との交渉はいつもよくあるんですけど、高知学芸高校の場合もそうですが、こちらと主張が開き過ぎて、難しいことが随分あるんです。
(主宰者註:和63年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故である。一行193人を乗せた列車は別の列車と衝突、引率の教諭と生徒27人が死亡した)。
話を借款に戻して、結局第1回、話を収めたのが500億円でした。それから何回かで合計では7,000億円の円借款が出ることになるわけですが、私は最初のその500億円の賠償交渉を北京で担当した訳であります。
今度、竹下さんが持っていく第3次借款の額は8,000億円。1990年から95年の6年間に8,000億円貸しましょうということで、最初の500億円からの分を全部足してその上に今度の8,000億円を加えますと、1兆6,000億円になる。感慨一入です>。
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