1259 川中島の濃霧 古沢襄

板東太郎・利根川の橋を車で渡ると濃い霧に包まれることがある。川霧は幻想的だと呑気なことを言っておれない。老眼を見開いて対向車のライトを見定める苦労をしなければならない。私が住む茨城県の守谷市は秋から冬にかけて霧がよく発生する。
少年時代を千曲川にほど近い信州・上田で四年間過ごしたが、早朝に釣り竿をもって自転車で千曲川によく出かけた。霧は川の水温と空気の温度差が大きいと発生する。大雨が降った後には川面が霧で覆われた。
NHKの大河ドラマ「風林火山」は、いよいよ武田信玄と上杉謙信が一騎打ちの死闘を繰り広げた川中島の決戦に入る。川中島古戦場の標識が立つ長野市小島田町の八幡原は観光客で賑わうのではないか。
ところが永禄四年(1561)の信玄・謙信の一騎打ちを伝える資料は、江戸初期の「甲陽軍鑑」ぐらいしかない。雑書はあまたあるのだが、多くは「甲陽軍鑑」の引き写しであって、しかも後世になると名文調になってくる。
それはともかくとして、この話のクライマックスは川中島に濃く立ちこめた霧が背景になった。「甲陽軍鑑」は「日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、輝虎(謙信)勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているのであった」と書いている。
井上靖の「風林火山」では「(甲州軍は)広瀬で千曲川を渡った。平原には濃霧が立ちこめていた。武田の旗本軍はその霧の底を這うようにして、次第に幅広く横隊となって展開していった」と書く。いずれも千曲川の霧について触れてはいるが、淡泊な表現となっている。
しかし信州出身の新田次郎は「武田信玄」で川中島の霧について詳しく書いた。山岳作家でもある新田次郎は気象条件の変化について、その作品で多くのページを割いている。
梅津城に入った信玄は山本勘助を呼んで「勘助、霧の方はどうだ」と問う。勘助は「雲気(気象)を観ることの上手な者を探し出しました」と答える。
勘助によれば、この者は権蔵というと申す一見痴呆のような、むさ苦しい男で、閑さえあれば千曲川の河原に行って、空と水を眺めているという。しかし、明日の雲気は百発百中だという。
大河ドラマでは百姓・権蔵の代わりに老婆を登場させている。いずれもフィクションの世界だから、どちらでもいいのだが、霧のことについては井上靖の原作よりも新田次郎の作品の近い設定をしている点が面白い。
クライマックスは霧が晴れた面前に、謙信の軍一万三千が忽然と現れる情景である。この部分は「甲陽軍鑑」に依拠している。
川に立ちこめる霧を”川霧”と称して秋の季語にもなっている。しかし川中島の決戦では雌雄を決する軍略となった。文学的な才能があった謙信が霧を利用する作戦を思いついたのかもしれない。
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