1260 夢に立った母の姿 古沢襄

母がこの世を去ったのは昭和57年2月6日のことであった。脳血栓をわずらい半身不随となって10年間も病床に臥した。時折ゾーとするような暗い目をして「早くお前のお父さんのところに行きたい」と言うこともあったが、亡くなる時は「死にたくない・・・助けて」とうわごとのように繰り返した。
昏睡状態になっても「助けて、助けてよ」と同じ言葉を低い声で繰り返す。生前の母は理性が勝ち過ぎるくらいの冷たさがあった。生死を超越したような気丈さがあったのだが、死ぬ時は普通のか弱き人の子に戻っていた。
骨髄腫の告知を受けて、間もなく四年目のお正月を迎えるが、今の私は死ぬことをあまり怖れていない。七十六歳になって十分過ぎるほど生きたという思いがある。しかしいまわの際になると母と同じように生きたいとジタバタするのであろうか。母の子だからそうなるのかもしれない。
夜中になって、こんなことを書き綴るのは、夢の中で母が現れたからである。最初は私を呼びにきたのかと思った。じっと私の側に座っていた。夜が白々と明けるとガラス戸を抜けて庭に立ち、やがて姿が消えた。いつの間にか母が座っていた位置に愛犬のバロン二世がいて、私の手を舐めていた。
目が覚めるとバロン二世が私のベッドに飛び乗って、半分は眠りながら私の手をしゃぶっている。「ボクを置いて行かないでよ」と甘えているかのようであった。この子を遺してオサラバするのは可愛そうな気がする。まあ、生きれるだけ生きようと思いながら書斎のストーブをつけて、また眠くなるまで夜のしじまの中でものを書き始めた。
明日は月に一回の主治医の診察を受ける日である。再来週には総合病院で採血、採尿をして骨髄腫の進行状態を診察して貰う。高血圧は低下しつつある。毎日、沖縄の野草で作った野草酵素を朝夜に飲んで、水素水を一日に二リットルは飲んでいる。
上海の友人から送ってもらった中国茶は欠かさず飲んでいるが、この一ヶ月近くは福井の黒田社長から頂戴したピロール農法で作った桑のお茶も愛飲している。
そのいずれが効いたのか分からないが、骨髄腫から出るMタンパクが減少傾向をみせている。高血圧も薬のせいか低下してきた。現代医学で手に負えない病気も漢方風の治療を気長に続けると効果が出てくるのかもしれない。明日の診療で主治医が首を傾げると面白い。主治医には野草酵素、水素水、中国茶、桑茶のことは言っていない。
総合病院の血液内科の医師は、投薬治療をいつから始めるか、そのスレスレの状態にあると診断したが、まだ当分はその時期が来ないのではないか。三ヶ月もこの状態が続けば、血液内科の治療医も首を傾げるだろう。ちょっとした悪戯心がわいている。
どうも私の病気のことが、一番分かっているのは愛犬のバロン二世なのかもしれない。心配そうな顔をして、一日中私の側から離れようとしない。愛犬に支えられて当分はトボトボと夕暮れの人生街道を歩み続けるのであろうか。
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