したたかを漢字で書くと「強か」となる。
産経新聞を購読する理由はいろいろあるが、米、韓、中の情報が格別に興味を引く事が大きな理由。特に最近第4部に入った「鄧(とう)小平秘録」は世界的に優れた連載である。
鄧小平に関する文献はいろいろ出版されているが、中国総局長伊藤正氏は北京駐在が長く、共同通信社から産経に移籍してからでも既に7年目である。他の社でこれだけ長い北京駐在歴を持っている人を知らない。
相当な人脈を築いている筈だが、本人に迷惑の掛かることを慮って名前を殆ど伏せている。それだけに記述に逆に信憑性があるというものだ。
それにしても毛沢東「独裁」の共産主義国家を、少なくとも経済は改革・開放という名の資本主義国に転換させた手腕を連載から読み取る時、3度の失脚と復活、さらにその後も陳雲ら保守派との闘い方には我々も学ぶべき「強かさ」があったのだ。
まず毛沢東に対する姿勢だ。3度も失脚しながら毛沢東に対する恨み節は絶対、吐かなかった。「毛沢東同志はその生涯、実事求是(事実に基づき心理を追究する)と誤りは正す原則を堅持、冤罪などの名誉回復に長期闘争してきた」「毛沢東思想の旗をさらに高く掲げ、偉大な勝利に前進しよう」と書かせている。
これは1980年2月の5中総会のコミニュケの一節。元の国家主席劉少奇氏の名誉回復のためのものだが、3ヵ月後の5月17日の劉氏追悼大会で読んだ弔辞でも、鄧氏は毛沢東の名前さえ出さなかった。
いうなれば毛は劉を殺した人物と言っても過言で無い存在なのだ。元々問題の文化大革命は劉国家主席を引きずり降ろすための毛の私怨から出たことと言っても、これまた過言ではない。
文化大革命の中で劉氏は「毛沢東に対抗してブルジョア司令部を作り、資本主義路線を実行した」として激しい迫害を受け、68(昭和43)年には「裏切り者」の汚名を着せられて党を除名処分。移送先の河南省開封で病死した。
それでも鄧氏は弔辞の中で毛沢東の名は一切出さず「文革中、林彪、4人組一味は党の権力を奪取する反革命目的から、わが党の欠点と誤りを利用、劉少奇同志を陥れ、残酷な迫害を行った」と述べて毛沢東を庇った。
これはと惚けたのである。最終的な目的である経済の改革・開放には陳雲ら強烈な反対派がいて、毛路線を堅持しろと鄧氏を脅しているから、オレはこの通り、毛主義者だと居直ったのだ。
1978年8月、当時の外務大臣園田直(故人)に秘書官として従いて人民大会堂での会談に臨んだとき華国鋒氏は毛沢東後継の国家主席として君臨。華氏より貫禄のあった鄧氏はただの副首相に過ぎなかった。
しかし鄧氏は胸の中では華国鋒氏を保守派の代表として追放しない事には済まないと決意していたはずだ。連載を読んでそれが漸く分かった。
そのための策略の詳細は省略するが、じわじわと追い詰められた華国鋒氏は80年9月に開かれた全人代第3回会議で、兼任していた首相を辞任、鄧小平子飼いの趙紫陽氏が後任になった。
しかし党中央で屈指の計画経済主義者であり党中央政治局常務委員たる陳雲氏らが改革・開放政策に猛烈な反論を展開する。これらを如何に手名づけるか、或いは排除するか。
初め両氏は改革・開放路線に対して、華国鋒氏ら「毛沢東路線全面継承」を主張する「すべて派」を共通の敵として手を結んでいた。その後陳氏が批判派に廻るや、陳氏の主張に賛意を表しながら実質的には陳氏を無視して突っ走った。
特に凄いのは「毛の言葉で毛路線に反対」を展開した頭脳の鋭さである。
鄧氏が3度目の復活を遂げた僅か1ヵ月後、中国共産党は77年8月に4年ぶりの第11回党大会を開くが、ここでは華国鋒主席を「英明な領袖」と呼びながら華国鋒報告演説とは違う内容を加えて足を掬うようなタネを仕掛けた。
「大衆の声に耳を傾け、大衆の苦しみに関心を寄せ、大衆から遊離してはならない」「実事求是の伝統を回復、真実を語り、発言に罪は無い」などすべてに「毛主席が築いた」という枕詞をつけていた。華国鋒もこれではどうしようもなかった。
元新華社記者楊継縄氏は鄧氏の毛沢東すべて派(華国鋒氏ら)との闘いは「政治芸術」だと表現しているそうだ。毛沢東の言葉で毛路線に反対し、華国鋒氏と協調しながら華氏を倒していった手法は当に政治芸術とは謂い得て妙では無いか。
先輩古澤襄さん流に解析すれば鄧小平氏の血液型は何だったろうか。常に希望を棄てなかったということも尊敬に値する。2007・12・05
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1265 鄧小平に学ぶ「強かさ」 渡部亮次郎

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