1268 友と語らん篠懸の径 渡部亮次郎

散歩する恩賜公園は落葉樹の殆どが裸になって冬支度を急いでいるが、鈴懸(すずかけ・プラタナス)だけは落葉が遅れて、汚い様を見せている。
スズカケノキ(木) (common) plane∥Platanus orientalis 日本には明治初めに渡来し,小石川植物園に植えられた。秋に多数の小堅果からなる直径3~4cmの球形の集合果が山伏の着る篠懸の衣に付いている房の形に似ているところから,鈴懸という和名がついた。
しかし恩師公園に植えられた8本の大木には、今年は実が1つも付いていないのに6日気づいた。今まで葉が多すぎて分からなかった。
近くで並木になっている公孫樹(いちょう)の雌樹には隔年性というか、銀杏の成り方が1年置きに多くなるように見えるので、鈴懸にもそんな事が有るのだろうか。
不思議に思って、こうしてPCの百科事典を開けたのだが、この点に触れた記述を捜す事はできなかった。公園を歩くだけでは、どうしてもリンゴの落下から引力を発見したニュートンには近づけないなぁ。
バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し,紀元前からすでにイタリアに入り,16~17世紀にはフランス,イギリスでも街路樹に用いられたという。
日本で栽植されているものは,スズカケノキのほかに2種ある。
アメリカスズカケノキ P.occidentalis L.(英名 buttonwood)は高さ30m,とくに大きなものでは50mになり,樹皮は乳白色で小さくはがれる。葉は浅く切れ込み,集合果は1個が柄で垂れる。北アメリカ東部に分布し,日本には1900年に入ったが,あまり広められていない。
日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ(一名カエデバスズカケノキ) (英名 Londonplane)で,スズカケノキとアメリカスズカケノキの雑種といわれ,樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。集合果は1~2個ずつ垂れる。
スズカケノキの仲間は,やせ地や低湿地でもよく生長し,公害に強く,刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。
日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め,今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。
スズカケノキ科 Platanaceae は1属だけからなり,ヨーロッパ南東部からインドまで,インドシナ半島,北アメリカからメキシコに6~8種が隔離的に分布する。
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「友と語らん 鈴懸の径(みち) 通いなれたる 学舎(学びや)の街   
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」と灰田勝彦が唄ったのは昭和17(1942)年。
兄の灰田晴彦が作曲、それに新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめた。大東亜戦争に命令されて出陣する学生たちは、万感の思いを込めてこの歌を唄ったという。
あの戦争中はまず学徒動員が日中戦争が始まって間もない1938年(昭和13)ころから、食糧、軍需品生産の人手不足を補うために行われた。学生、生徒の勤労動員。学徒勤労動員ともいう。
大東亜戦争中の44(昭和19)年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全員、軍需工場などに動員され、45年8月の敗戦まで、学校教育は事実上、停止した。
学徒出陣はそれに続く措置。戦争下で、徴兵猶予制度の廃止により理工科系・教員養成系をのぞく大学生・高専生を入営させた措置。それまで大学生、高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。
しかし満州事変につづく日中戦争で兵員の不足に悩のでいた政府は、1941年(昭和16)10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で兵員を補った。
戦局の悪化でさらに兵員の不足が深刻になると、1943年10月に「在学徴集延期臨時特例」を公布して、20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定。「徴兵猶予」とう特典を消して徴兵をかけたわけだ。
10月21日、冷雨のなか明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で、文部省主催の出陣学徒の壮行会出が挙行された。東京とその近県から集まった出陣学徒は、東条英機首相の閲兵と激励を受け、場内を行進。
スタンドを埋め尽くした6万5000人の家族・級友・女子学生などがこれを見送った。出陣学徒は、13万人とも20万人とも推定されている。
中国大陸や南方戦線、南太平洋へ送られ多くの戦死者を出した。1949年には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」が出版され、大きな反響をよんだ。
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