1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。先に突然、政権を投げ出した安陪晋三の大叔父に当る。
ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。
これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。
7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。
ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。
政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。
71年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。
2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。
<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・・(中略)・・
実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)
このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。
<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)
この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。
宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省の持っていたが、宮澤には何も無かった。
角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すればいいんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。
糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。
ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。
先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。
ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまで下。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。
よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。
「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日康夫内閣を苦しめている独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。旧田中派のお陰で政権を握っ康夫だが、角栄に苦労しているとは、皮肉の限りだ。文中敬称略。2007・12.08
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1278 宮澤ダメ、角栄OK 渡部亮次郎

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