「未完成交響楽」はシューベルトを扱った伝記映画(1933年)。1933年は昭和8年。私の生まれる3年も前である。私が高校時代、物理の授業をサボって秋田市内で見た映画も同じ題だった。モノクロ。同じ作品だったろうか。
「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」の台詞が有名と解説にあるから、どうも同じ作品だったようだ。恋が稔らなかったから、この交響曲も未完成なのだというテーマだったから。
高校3年生の時から既に50年以上も経つが、今でも散歩の友の1人はシューベルトであり未完成交響曲である。2楽章の途中で停まったままであるのに、その甘美な調べにいつも酔う。物理の授業をサボった時代を懐かしんでいるのかもしれない。
交響曲は通常4つの楽章から構成され、その最も典型的な形が「運命」や「新世界」などに見られる形式だそうだ。だからシューベルトも当初はそのようなものを構想して、この交響曲ロ短調の作曲を進めていったのであろうと考えられる。
しかし、シューベルトは第2楽章まで完成させ、スケルツォ(第3楽章)をスケッチまでほぼ仕上げながら、そこで作曲を中止してしまった。このような経緯により交響曲ロ短調D759は、第2楽章までしかない未完成交響曲となってしまったのである。
なぜ第2楽章までで作曲を中止してしまったのかには映画とは別にさまざまな説がある。
例えば「第1楽章を4分の3拍子、第2楽章を8分の3拍子で書いてしまったために、4分の3拍子のスケルツォがありきたりなものになってしまった」というもの。
また「シューベルトは、第2楽章までのままでも十分に芸術的であると判断し、それ以上のつけたしは蛇足に過ぎないと考えた」という説などである。
事実、第3楽章のスケッチの完成度があまり高くないため、シューベルトのこの判断は正しかったと考える人は多い。もっとも、このように音楽作品を完成させないまま放棄するということをシューベルトはきわめて頻繁に行っており、「未完成」であることは、この交響曲の成立に関してそれほど本質的な意味はないとする考えもある。
シューベルトが残したスケルツォにオーケストレーションをほどこして第3楽章とし、劇付随音楽「ロザムンデ」の間奏曲を流用して第4楽章とする4楽章の完成版があるという。
イギリスの音楽学者エイブラハムとニューボウルドによるものだが、趣味の悪い選択でしかないという意見も多い。
シューベルトの多くの作品で見られることだが、第1楽章の第1主題冒頭の自筆譜に書かれた記号はアクセントなのかデクレッシェンドなのか判然とせず、今でも見解が分かれたままである。
「そのどちらでもなく」演奏することが慣例だが、どちらかにしてしまう極端な解釈の演奏も見られる、というが聴いた事は無い。
なお、20世紀の名指揮者・作曲家であったフェーリクス・フォン・ヴァインガルトナーは、この曲の未完の第三楽章を補筆し、自作の交響曲の中に使用している、という。
ところで、1827年3月26日、ベートーヴェンが死去した。シューベルトは葬儀に参列した後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは大変不吉な霊感を受けたと言う。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。
最晩年の1828年、シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家シモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。
何度かのレッスンの後、同門の知人はゼヒターに「シューベルトは重病です」と告げた。死の病となった腸チフスがシューベルトを蝕んでいたのである。
シューベルトは突然腸チフスに冒され、2週間の闘病の後、11月19日に兄フェルディナントの家で死亡した。まだ32歳になっていなかった。
死後間も無く小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデのための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。
死因は後期梅毒であるともいわれているが、記録から見るとシューベルトは梅毒の第2期(発疹、脱毛など)止まりであったことがわかっており、症状(発熱、吐き気など)の記録から直接の死因は腸チフスと見るのが妥当であろう。
シューベルト生誕200年の1997年には、改めて生涯の再確認が行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も公表された。参考:「ウィキペディア」2007・12・12
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