河野謙三さんという参院議長がいた。今の河野洋平衆院議長の叔父。政権を握る夢を果たさずに他界した河野一郎氏の弟である。一年ばかりの短い期間だったが、参院を担当したことがある。
斬った張ったの政争に明け暮れる自民党や野党の担当だった頃に較べると参院は無風地帯。体調を崩していたこともあって、良い休養の場所でもあった。佐藤内閣の初期だったが、参院の天皇といわれた重宗参院議長の全盛時代。
謙三さんは副議長だったが、痛烈な重宗批判を繰り返していた。「参院は与野党の政争の場とすべきではない。良識の府たるべきである・・・」。謙三さんの参院良識の府論に共鳴した記者たちが数人いた。私もその一人。
重宗参院議長の取り巻き記者もいたが、私は重宗会見には一度も出なかった。それでも取材上の痛痒は感じなかった。迫水幹事長の記者会見を聞いていれば、仕事上はこと足りたからである。あとは副議長室でとぐろを巻いて謙三さんの洒脱な漫談を聞く方が楽しかった。
謙三さんから”緑風会時代”という言葉が何度も飛び出した。衆院は熾烈な政争の場である。与野党の対立もあるが、自民党の派閥対立、社会党の路線対立の方が激しかった。それに参院が巻き込まれてはならない、というのが謙三さんの持論。
重宗天皇は佐藤首相の後ろ盾となって、強大な権力を振るっていた。内閣改造人事があると参院の閣僚枠三人は、すべて重宗天皇の裁量で決められていた。いきおい参院自民党の陣笠議員たちは重宗天皇の前にひれ伏すしかない。
「本来なら衆院から送られてきた法案は参院の良識によって取捨選択が行われるのが筋」というのが謙三さんの意見。だが参院の天皇に逆らう副議長には何の力もない。その雌伏の時代の謙三さんに一年間付き合った。
緑風会・・・今の政界では知る人も少なくなった。ウイキペデイアの世界となっている。だが昭和政治史の中で、こういう時代があったことは、忘れてはならない。今の国会の体たらくをみるにつけて、その思いを強くする。良識が引っ込み、露わな権力闘争だけが目立つ現状は、参院そのものを否定することになりはしないか。
<1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員選挙で第一党は日本社会党の47議席。 以下、日本自由党39、民主党29、国民協同党10、日本共産党4議席をそれぞれ占めたが、無所属議員が108人の当選を見て、最大勢力となった。
同年4月20日、無所属で当選した一人である山本勇造(有三)の当選祝賀会で、後藤隆之助は「既成政党にあきたらぬ清新な人たちばかりを集め、無所属クラブを作ってはどうか」と山本に意見し、山本も乗り気になった。
一方、5月1日、貴族院議員からのスライド当選組であった河井彌八は、古島一雄、赤木正雄らと相談した結果、保守系議員の有志を糾合しようということになった。同じく貴族院からの転身組である慶松勝左衛門もまた、同様の構想を持ち、河井らと合同した。
慶松は日本自由党公認で当選したが、政党の枠を超えた会派を作ろうとしていた。こうした動きが相次いだのは、一つには貴族院転身組や当時の官僚は自負心が強く、既成の政党を低く見ていたからである。また、衆議院と一線を画した、不偏不党の統一会派を作ろうとする機運もあった。これについても、政党色を嫌った貴族院の影響があったといえる。
しかし、慶松らの計画に参加していた橋本萬右衛門(民主党)が、民主党系の会派が発足したことを打ち明けると、自由党も自前の会派を発足させ、大同団結構想は挫折した。
その間も山本らは無所属議員の団体結成を進めた。5月10日、第一回結成準備会を開き、山本ら41名が発起人となった(出席者20名、賛同者21名)。団体名は仮に無所属クラブとし、正式名称は追って決めることにした。
5月17日、無所属の参議院議員のうち保守系を中心とした72人が集まり、院内会派「緑風会」を結成した。会派名は、いったん「中正会」に決まったが、山本は貴族院に存在した公正会に似た名称であること、各人の自由意志を尊重するためには、政治的イデオロギーのある名称は好ましくないなどの理由を挙げ、「緑風会」の名称を提案。山本の提案が承認された。また、規約もこの時制定された。
山本によれば、「緑風会」の名の由来は、第一に緑風会が発足したのは暦の上では初夏であり、また日本国憲法公布後の初の国会(第1回参議院本会議)が招集されたのは5月20日である。緑風の名は夏風にふさわしく、新しい国会発足を象徴するにもふさわしいこと。
第二に、緑は七色の虹の中央に位置することから、右にも左にも傾いていない。さらに、清新・静寂・平安・沈思を連想させる色であり、第二院である参議院の性格に通じるばかりでなく、会の精神を暗示していること。第三に、国会に新鮮な風を送り込みたいという希望を持ったことを理由にしている。
5月20日に第1回参議院本会議が召集されると、緑風会は92人に増大し最大勢力となった。主な内訳は、旧華族を中心とした貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人などである。初代参議院議長は、緑風会から松平恒雄が選出された。
10月20日には、田中耕太郎の草案を元に、綱領を制定した。新憲法の精神を打ち出しつつ、左右の両極を排し、中道主義への立脚を目指す内容であった。もっとも、田中は戦後になって自由を強調するあまり、自由を乱用していると考えた。
また国家や民族について考えることが、極端な保守反動と罪悪視されていると認識していた。そのため、「公共の福祉」よりも高次元の「共同の福祉」を提唱したり、家族や伝統の価値を強調し、労使協調を明記しようとした。最終的に、田中の草案から政治色を薄める修正を行い綱領が成立した。
一方、国民協同党は参議院で10議席に留まったため、緑風会との統一会派を望んだ。緑風会側は、会員の自由意志を尊重する建前がある以上、国協党に振り回されては困るから離党してから来てくれと要求した。
結局、国協党籍は残したまま、緑風会では国協党員としての活動はしないという条件で、緑風会会派入りした(ただし会派名は単に「緑風会」)。しかし、国協党員側は会内に独自のクラブを作っただけでなく、絶えず党と連絡を取り続けた。
その結果、緑風会は規約に他の政党・政治団体との二重党籍を禁止する条項を追加し、国協党員に国協党離党か緑風会退会かの二者択一を迫った。結局、2名が緑風会を、残りの8名は国協党を選び、統一会派を解消した。
緑風会は基本的に保守政党に協力したが、参議院のみの会派であり、衆議院に候補を立てることも、政権獲得を目標とすることもしなかった。
また、「是々非々」を旨とし、党議拘束を設けなかった。そのため、同じ法案に緑風会から賛成、反対両方の討論を行ったこともある。破壊活動防止法案や義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案・教育公務員特例法一部改正法案(教育二法)などでは、独自の修正案を出している。
緑風会がキャスティング・ボートを握っていたため、両法案では緑風会案が可決された(破防法については、反対派からは、政府案に形式的修正を加えたに過ぎないという批判もある。「法政大学大原社研 1952年の破壊活動防止法の国会審議〔日本労働年鑑 第26集 765〕」。また、教育二法では、原案の刑事罰を行政罰に緩和した)。
しかし、参議院の政党化が進むにつれて勢力も次第に衰亡。吉田茂が官僚出身者を大量に衆議院選挙に当選させたことから、官僚出身者の政党への抵抗感が薄れ、次第に政党への移籍が増えた(主に保守政党へ、和田博雄など一部が社会党へ)。憲法改正論議では、有志が1955年7月11日、改憲を目指す「自主憲法期成議員同盟」を日本民主党と自由党の有志とともに発足させ、初代会長には緑風会の広瀬久忠が就任した。
また保守合同を推進し、1955年4月12日、緑風会の有志が民主・自由両党にすみやかな合同の促進を求めた。両党からは、緑風会にも保守合同に参加するよう申し入れを受けたが、党利党略や政争と距離を置く建前からこれを断っている。
10月13日、左右に分裂していた社会党が一足先に統一すると、11月5日には重ねて有志の意見として、二大政党主義の実現のためにも、すみやかな保守合同を行うよう口上書を送った。民主、自由両党が自民党として合同したのは、11月15日であった。
引き続き政党からは距離を置くとしたものの、55年体制成立後は、所属議員の自民党への流出が続いた(55年体制後の他党への移籍先は、高良とみを除きすべて自民である)。ただ、政党の手に渡って久しい参議院議長・副議長は、在任中党籍離脱するよう提言したのは注目される。
1960年(昭和35年)に参議院同志会に改称。1962年、無所属議員の会派「無所属クラブ」と合同して第二院クラブと改称した。これは院内交渉団体資格(10人以上)を維持するためであった。
ところが、1964年に同志会への改称を主導した大竹平八郎ら3名が自民党に移籍すると、緑風会に復帰。また院内交渉団体資格を失ったため、統一会派の意味が無くなったとして、再び緑風会の単独会派となった。一方、旧無所属クラブ所属議員は、失踪中の辻政信を除き、そのまま二院クラブに留まった(辻は純無所属を意味する「各派に属しない議員」とされた)。
緑風会は、翌1965年の第7回通常選挙に候補を擁立せず、6月2日、自然消滅の形で解散した。旧所属会員は、懇親団体としての緑風会を結成し、旧交を温めたという。
一方で二院クラブは、無所属やタレント議員の受け皿として、その後も一定の支持を得ていた。しかし、1995年の第17回参議院選挙を最後に、当選者は出ていない。(ウイキペデイア)>
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1290 河野謙三さんと”緑風会時代” 古沢襄
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