1334 大晦日に死ぬと 渡部亮次郎

死ぬ日を選ぶ事はできないが、大晦日に死ぬと新聞の年表には残らない。新聞の大晦日に載る年表は前日までに作られるから、その人は、その年の逝去者名簿に載らない事になる。
その人の1人が牛場信彦(うしば のぶひこ)氏である。1984(昭和59)年12月31日ニ75歳で死んだ。福田赳夫内閣で外務大臣園田直の脇で対外経済担当大臣を勤められたからよく知っている。
牛場信彦氏は1909年11月16日に生まれた。兄に近衛文麿秘書官を務めた牛場友彦がいる。
東京府立一中、第一高等学校を経て、昭和7年、東京帝国大学法学部卒業。同年、外務省入省。戦時中はドイツ、イタリアとの枢軸支持の外交官として活躍した。
戦後になると、武内龍次、黄田多喜夫ら、のちにこれらの事務次官となる2人のあとを受けて、新制・通商産業省3代目通商局長(在任:1952年8月1日―1954年7月15日)に就任。
以後、外務省経済局長、駐カナダ大使、外務審議官、事務次官を歴任した。
昭和45~48年(1970年~1973年)、沖縄返還交渉、日米繊維摩擦の交渉大詰めの時代に駐米大使を務め、全米50州余りを相互理解促進のため講演行脚に勤しんだ。
昭和52年(1977年)には、福田赳夫内閣にてその識見・人望の厚さを買われ、対外経済担当大臣に就任、欧米との経済摩擦緩和に東奔西走した。
昭和59年(1984年)、日米諮問委員会(日米賢人会議)では、日本側代表を務めた。1984年12月31日没。享年75。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
当時、外務省では「牛場さんの後につくときは気をつけろ、怪我をする」と言われていた。牛場さんはドアを開けて入ると、後に従ってきている部下の事など忘れて、後ろ手でドアを閉めてしまう。後ろの人は顔に怪我をする、ということであった。
対外経済担当大臣。国際経済問題に園田は弱いという評価を福田首相が下したわけで、園田氏は面子を潰されたわけだが、牛場さんには特別に外務省内の部屋を牛場大臣室として提供するなど気を遣った。
牛場さんもまた園田氏に気を遣い、日に1度は必ず連絡に現れた。秘書官として見ているとそれは実に微笑ましい風景だった。
牛場さん、若い頃はカミソリだった。部下の課長に「君、あれはどうなったかね」と聞いて課長が「ハ?」とでも言おうものなら「キミ、家に帰りたまえ」といった。局長と課長のキミとで「あれ」という懸案は1つぐらいしかない。それを「ハ?」とはなんだ、という事だった。
沖縄返還の実務をアメリカ大使として取り組んだ。それも並みの大使では無い・部下の書記官まで動員して上院、下院議員の説得に当らせた。息子たちはタカ派として育った。
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