米内内閣は昭和15年1月16日から7月16日までの半年。短命内閣で終わった。直接的には7月8日に畑陸相が辞任して、後任陸相を陸軍が出さないと通告してきたので、米内は内閣を投げ出さざるを得なかった。
しかし間接的には近衛が枢府議長を辞任して新体制運動に乗り出したことが影響している。この空気を察した昭和天皇は「米内内閣をなるべく続けさせる方がいいと思う」と木戸内府に言っている。(松本幸輝久「歴代宰相物語」)
近衛は「自分は倒閣運動をやっているのではない。新体制運動は内閣が潰れては、失敗してしまうから、米内にはもう半年は少なくともやってほしい」と石渡内閣書記官長のところに言ってきている。
しかし近衛の発言とは裏腹に陸軍は倒閣に動いた。いわば近衛と陸軍によって米内内閣は潰されたと言って良い。昭和15年7月22日に第二次近衛内閣がスタート、陸相には東條英機大将がなった。外相には松岡洋右。世人は近衛と陸軍が米内を扼殺したと噂した。あとは無謀な日米戦争に向かって破局の道を突き進んでいる。
なりたくない首相に担がれた米内だったが、日中戦争から日米戦争に向かう中で精一杯の平和努力を傾けた。しかし孤立無援の形で倒された。束の間の平和志向内閣だったといえる。
その米内が政治家としての真骨頂を発揮したのは東條内閣の総辞職によって開かれた昭和19年7月18日の重臣会議であった。阿部元首相が「米内さんに後継首相をお願いする」と口火を切ったら「軍人は片輪の教育を受けている」と頑として受けない。
しかし「海軍は自分が出ないと納まらないから海相を引き受ける」と言った。この小磯内閣、次の鈴木内閣そして敗戦最後の東久邇宮内閣で海相として戦争終結に生命を賭けている。
短命に終わった米内内閣だったが、怒濤のごとく戦争に突き進む世相の中で、この内閣の存在は異彩を放っている。劇場型政治を演出した小泉元首相、戦後レジームからの脱皮を唱えた安倍前首相に較べると、福田政治は明らかに異なった政治手法をとっている。
見栄えはしないのかもしれないが、半藤一利氏は米内政治と共通するものをみているのであろう。それは短命内閣で終わるかもしれないが、一歩立ち止まって政治の在り方を問う価値がありそうである。ささくれ立った世相の中で、福田政治は一種の”癒し系”の役割を背負っているのかもしれない。
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