1348 ミッドウエー海戦敗北の教訓 古沢襄

戦前の日本は泥沼の日中戦争、無謀な日米戦争に突っ込んだ過ちをおかした。そのためにどれだけの被害と犠牲を国民やアジア諸国に与えたことか、その罪は大きい。しかも過ちを正す機会が途中で何度かあった。
私の大伯父に平出英夫という海軍少将がいた。大東亜戦争の開戦時に海軍報道部長としてラジオで戦果を発表した。海軍で日独伊三国軍事同盟を推進した枢軸派。英米派の米内光政、山本五十六と対立している。
昭和17年の秋だったろうか。伯父のところから戻った父・古沢元が暗い顔をして、貰ったサントリーの黒ラベルを黙然と飲んでいたことがある。あとで知ったのだが、ミッドウエーの海戦で日本の航空戦力が壊滅的な打撃を受けたことを教えられたという。
日中戦争は陸軍が主役。日米戦争は緒戦ではマレー作戦(対英国)、比島作戦(対米国)、インドネシア作戦(対オランダ)は陸軍主導だが、太平洋では海軍が主役の戦争だった。
ミッドウエーの海戦の敗北は、彼我の工業生産力からみて日本の敗北を予言するものであった。枢軸派の大伯父も、それを認めざるを得ない。世界最大級の戦艦大和や武蔵も航空戦力を失えば裸の王様。大伯父は間もなくマニラの大使館武官として日本を離れた。
岸元首相の長兄に佐藤市郎海軍中将がいた。江田島の海軍兵学校で一番の成績だった俊才だが、岸氏も長兄からミッドウエーの海戦の敗北を教えて貰っている。それが戦争継続に固執した東條内閣の打倒に動いた原因となっている。
海軍部内では枢軸派も英米派も短期決戦戦略が崩れ、戦争継続が困難になるという認識が広まった。太平洋の島々を占領した陸軍は、海軍が壊滅すれば孤島に放り出され、反撃に転じる米軍の餌食にならざるを得ない。
ミッドウエーの海戦の敗北は、遅ればせながら戦争終結のチャンスだった筈である。私の伯父に海軍省記者クラブ・黒潮会のボスだった人物がいる。報知新聞の海軍記者で末次信成内相の秘書官になった枢軸派寄り。鈴木英史といった。
教師になるつもりでいた私をジャーナリストにさせた恩人なのだが、戦後、鈴木氏にミッドウエーの海戦の敗北を知っていたか、尋ねたことがある。驚いたことに海軍記者はミッドウエーの海戦の敗北を知らないでいた。しかも戦艦大和や武蔵があるかぎり日本海軍は不敗だと信じていたといった。
海軍首脳が知っていたミッドウエーの海戦の敗北が、戦争終結のチャンスに結びつかなかったのは悲劇といわざるを得ない。昭和17年秋の時点で終戦工作が進められていれば、東京都の玄関口であるサイパン玉砕、東京大空襲、沖縄戦の悲劇、そして広島・長崎の原爆投下という悲惨な事態は未然に防げた。
陸軍悪玉、海軍善玉説が一時流行ったが、私の周辺でみるかぎり海軍首脳の責任は免れることができない。知っていて行動せざるは、知らずして行動せざるよりは罪が重い。戦争は過去のものではない。ミッドウエーの海戦の敗北を生かせなかった教訓は、平和国家になった戦後日本でも一つの教訓として忘れてはならぬと思っている。
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コメント

  1. 小山貴博 より:

    初めまして。
    教えて頂きたいことがありまして書き込みいたします。
    平出英夫氏が「海軍吹奏楽団長」をしたことがある、という書き込みを見まして、本当なのか、ご存じでしたら教えてください。
    私は日本の吹奏楽の歴史を調べておりまして、幕末から戦時中までを主に調べております。
    「海軍吹奏楽団」という呼び名はあまりにざっくりしすぎていて信用度が低いのですが、海軍軍楽隊を満期除隊した人たちが作った民間の吹奏楽団で名誉職として就任したのか?という可能性もありますので、違うにしても確実なことが解らず、気になっております。
    「③:「近代日本の音楽史」第一章・第二節:音楽家たちにとっての戦争」というページhttp://dennsetunokuuga.blog91.fc2.com/blog-entry-122.htmlの
    「昭和15年、雑誌 『音楽倶楽部』 8月号 に海軍吹奏楽団長の平出英夫が」
    とありまして…。
    よろしくお願いします。

  2. 古澤襄 より:

    正確ではないのですが、平出英夫は昭和11年イタリア大使館付武官・中佐として文子夫人とともにローマに赴任、在任中に大佐に昇任、帰国後、大本営海軍報道部課長となって昭和16年12月8日の大東亜戦争開戦のラジオ放送を行っています。
    昭和17年に海軍吹奏楽団長になっていますが短期間で軍務局4課長に転出、その後、海軍少将に昇任、昭和18年にフィリピン大使館武官として赴任しています。戦局がただならぬ状況下で単身赴任していました。帰任後、北海軍需監督部3部長。
    ローマ時代にフェーリス女学院出身の文子夫人のリードで社交ダンスを覚えたり、楽器をいじったりしていますが、海軍吹奏楽団長時代には永田町国民学校の講演で「戦争と音楽というと水と油のように思われるが、今日は音楽之戦争といえる時期に来ていると思う。その理由は音楽すなわち耳なので、耳の感が良い、音に対する感が良いということが戦争の勝敗に非常に影響があるからだ」と大風呂敷と広げていました。

  3. 小山貴博 より:

    あぁ、間違いというわけではないのですね。
    ありがとうございました。

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