1354 坂本龍馬、海洋立国の夢(4) 伊勢雅臣

■7.「亀山社中」■
元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。
勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。
元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。
5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
■8.薩長同盟を実現した交易■
龍馬は桂にこう持ちかけた。
長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。
桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。
一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって5百俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。
こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。(続く)
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