台湾を最初に発見したのはポルトガル人だといわれている。大航海時代(15-17世紀)にポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなどヨーロッパ列強は大型帆船を駆ってアジアにやってきた。
1544年(推定)にポルトガルの帆船が、台湾海峡の東に緑の美しい島を発見「イラ フォルモサ!」と船員たちが歓声をあげたという。この年の前年、ポルトガル船が日本の種子島に漂着、鉄砲伝来の年となった。
それから半世紀後、オランダが台湾に入植している。きっかけは膨湖島を占拠したオランダと明王朝が交渉の末に、膨湖島を返還する条件で台湾を植民地化した。いまでも台南にオランダ人が築いたゼーランジャ城の城塞が残っている。現在の名は「安平古堡」。
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膨湖島の代わりに台湾を割譲した明王朝は、随分と気前がよい様に思うが、当時の中国の認識は東支那海に浮かぶ未開の孤島といった程度であろう。しかし支那貿易や日本との交易を狙うオランダにとっては、恰好の中継基地となった。この頃、スペインも台湾北部の基隆、淡水を占領、城塞を築いてオランダと戦争になった。1624年にスペインはオランダに敗れて台湾から駆逐された。
中国はかなり早い時期から台湾の存在を知っていたのではないか。漢代の「漢書地理志」に「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見」との記載がある。東鯷が台湾を指すか学説が分かれているが、三国時代の「臨海水土志」にある「夷州在浙江臨海郡的東南」の夷州は台湾を指すというのが定説。
下って明王朝になって台湾は琉球、留仇、流虬、琉求、瑠球と称されていた。明の太祖の時代になると琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す言葉として使われている。沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼んでいるから、中国人の歴史意識の底には沖縄は中国領土という潜在意識があるのではないか。
明王朝は北方異民族が万里の長城を越えて侵入、清王朝をうち立てて滅亡した。明の旧臣・鄭成功は逃亡して、台湾に攻め込みオランダ軍を駆逐してゼーランジャ城に入城している。1661年にオランダの台湾統治は終わりを告げる。鄭成功は台湾を基地にして明王朝の復古を志したが、この地で死亡。三代23年にわたった鄭氏統治は、清軍の攻撃を受けて滅びている。
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