1380 共産党員と社会党員 渡部亮次郎

私の育ったところは秋田県の元八郎潟沿岸で、見渡す限り水田の中に1本道の両側に60軒ぐらいがひっそりと暮らす水田単作農家の集落だった。庭にはタモの木と公孫樹しかなかった。木の名を知らないのは田圃育ちだからだ。
農家は殆どが自由党支持。だが1軒だけ共産党支持、もう1軒が社会党支持。その社会党支持者がうちの父母だった。しかし、そのお陰で私たち子供は社会党支持にならず、社会党倒壊後に支持政党無し族にならずに済んだ。
貧しかった。全くの小作農家だったから貧しかった。だから父母は兄が戦争中、県立秋田中学校の合格した時、随分困った。小学校の先生の薦めるまま受験させたものの授業料の捻出に困った。
学校は戦争中であらゆる日常物資が欠乏している事を知ってか知らずか、生徒が携行する雨傘は「洋傘」つまり「蝙蝠傘」。貧乏小作農家にそんな上等な品物のあろう筈が無い。母親はその悔しさを98で死ぬまで語った。
後年私も秋田中学の後身たる秋田高校に入るのだが、愛校心の極めて薄いOBになったのには、このときの恨みがあるからのようである。
敗戦後の学制改革で秋田高校の生徒になった兄は終始、学業成績1番で通した。傍ら長距離走の練習で夕方まで練習にも余念が無く、駅伝競走では新記録を樹立した。頼もしい兄であった。
周囲は当然東京大学に進むものと考え、本人もその気になったが、両親は最後、肯んじなかった。兄が荒れたのは当然である。
やがて気を取り直して隣町五城目町の中学校の代用教員になった。評判のいい先生だったらしい。間も無く秋田魁新報という地元紙の記者試験。
試験は出来たが落とされた。調べたら秋田中学時代、流行のストライキの首謀者だったというためにする中傷が原因と分かり、それを言い出した主筆に抗議、結果合格した。父親が社会党の県支部連合会の役員に名を連ねていたのが原因だったのではなかろうか。
そこから先がわが兄の優れたところで、落とした主筆のところへ押しかけて誤解を解くよう要求。誤解が解けて入社が決ったもののラジオ部という、子会社民放用に新聞原稿をラジオ用にリライトする部門に置かれた。取材には出して貰えない日々が続いた。それでも腐りはしなかった。
お前は大学を出えてくるのだろうが、東京弁をマスターして来い。アナウンアサーになれると言っていた。それが満足にできなかったからではないが、昭和33年2月、卒業式を待たずに、NHK秋田放送局の通信員に世話してくれた。
その後の兄は、やがて社会部長を経て論説委員長から常務取締役になった。次に専務にといわれたそうだが、常務のままで定年前に退社した。交通事故で片目を失明したのがきっかけだった。
さてNHKの通信員。態のいい臨時採用記者。6月まで秋田県警察本部担当の補助。6月から青森県に接する大館市に駐在。毎朝4時に起きて大館警察署を訪問。管内の事件事故、火事の報告書を見せてもらうだけでなく、他のところで起きた事件事故の概要や指名手配なども知り得た。
問題は秋田放送局への送稿である。当時は戦争中の名残で秋田放送局には警察電話が繋がっていた。大館警察署から県警本部を呼んでもらい、県警本部からNHKへ繋いでもらい、泊り明けのアナウンサーに書き取ってもらった。まるで直通電話を持っているような贅沢。
しかも、私は多分東北管内のNHK記者で最も早起きの記者。ニュースは最も新しい。アナウンサーは気を利かせて仙台中央放送局のニュースデスクへ送稿してくれた。午前5時の東北各県向けのニュースに「大館発」が毎日のように流れた。それを聞いてまた寝た。
やがてNHKの翌年度の採用試験を受けるように、となって正式採用され昭和34年7月1日から仙台放送局報道課所属の記者になった。ここまで面倒を見てくださったのは秋田放送局の先輩記者早澤良雄さんである。いつも感謝してここまで来た。
1年後、岩手県の盛岡放送局、ここで4年。後東京の政治部へ。9年居て専ら『文藝春秋』の「政局夜話」を「赤坂太郎」名で書いた。それがもとで田中角栄首相の逆鱗に触れて大阪に左遷。
3年後に東京・国際局に帰還したが官房長官園田直さんに誘われるまま秘書官就任を受諾。NHK在職19年だった。国立(くにたち)の自宅から電車で総理官邸に駆けつけたが、内閣改造で園田さんは外相に横滑り。自動的に行ったこともない外務省で秘書官暮らしを計延べ4年、途中、厚生大臣秘書官も経験した。
退任後、いろいろ考えているうちに栗原祐幸元防衛庁長官の世話で、学生援護会の支援する社団法人日米文化振興会の理事長に就任。1984(昭和59)年8月のことだった。4ヶ月前の4月2日、園田さんが糖尿病による腎不全のため70歳で死んだ。
理事長としては約17年在籍。学生援護会の経営状況の悪化など諸般の事情を勘案して平成13年末で退任。日米文化振興会とは無縁になった。
同会はその後、いろいろな事情を経て秋山直紀氏の管理するところとなり、2006年に日米平和・文化交流協会に変身。秋山氏が参院外交防衛委員会の参考人に呼ばれる事件に繋がる。
思い起こすと父母は子供7人(1人は夭折)を育てるのに懸命だった。父は自作農になるために、早くから八郎潟干拓運動に奔走。父の居ない分を母と姉が背負った。干拓は実現、田圃も増えたが、それ以前に敗戦に伴う占領軍による農地解放で自作農になっていた。
男兄弟3人とも家を出たので妹が婿を迎えて家を継いだ。義弟は渡部家を大きくしたが、数年前、土建業の経営に失敗、家はもちろん田地田畑のすべてを失った。私には帰るべき故郷の家が無くなった。
父はとっくに死んでいたが、せめて遺された母が長く老人施設で暮らすことなく亡くなった事は、むしろ幸福だったのではないかと思っている。今日1月13日が私の誕生日である。
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