母が一〇年間の闘病生活の後に亡くなったのは昭和五十七年(1982)二月であった。あれから二十六年、間もなく母の命日を迎える。病床にあって書き続けていた小説「碧き湖は彼方」を読み返している中に父・古沢元の遺稿と合わせて出版するのが、何よりもの供養になると思った。
「びしゃもんだて夜話」と題した遺稿集を出したのは三月二十六日。これが地元の岩手日報が夕刊トップで報じてくれた。この夏、私たち夫婦は盛岡に招かれ、その足で初めて父の故郷である沢内村を訪れることになった。
冬には二メートルを越える積雪で”陸の孤島”となる沢内村には、北の山伏峠、南の仙人峠から入らねばならない。いずれも狭い難路。私はマイカーで北から入ったが、東京周辺の道路とは比較にならないドライバー・テクニックが必要で汗をかいた。
信州で敗戦を迎えた私だったが、進駐軍が入ってきて最初にやったのはブルドーザーを使った道路整備であった。先進国で日本ほど道路整備の遅れた国はない。同じように連合国と戦ったドイツはアウトバーンという高速自動車道路を持っていた。
大磯に居を定めた吉田元首相が首相官邸や国会に通うために東京・大磯を結ぶワンマン道路を作ったくらいである。道路後進国の日本がようやく先進国並になったのは、田中元首相の置土産である。だが全国高速自動車道路網というタテの自動車道路は整備されたが、地方の街や村を結ぶヨコの生活道路は十分に整備されていない。
東京など大都市圏に住む人たちには、この道路事情が分かっていない。
十年前のことになる。父と母の文学碑を多くの人たちの基金で建立されて除幕式が沢内村で行われた。盛岡からバスで沢内村に向かったが、難路の山伏峠は十六年前のままであった。切り立つ谷川の傍をバスで峠を登る怖さは、敗戦直後の信州の道路を思い出させる。
村で北島村会議長に会った。私の遠縁に当たる人だが、山伏峠のトンネルを作って盛岡との距離を縮めなくては、沢内村の発展は望めないと熱っぽく語っていた。さらには南には北上・横手を結ぶ高速自動車道路の計画があるが、旧道の仙人峠の道路拡張の方が先決、そのうえで花巻と沢内村の中央を結ぶ道路の建設に政治生命を賭けると言った。
三つの道路計画は、この十年で曲がりなりにも出来ている。しかしメーンの道路が出来てても、一歩横路に入れば除雪がままならない生活道路が未整備で残されている。この事情は住む人間にしか分からない。都会人の頭で地方の道路を論じられては迷惑である。
過疎地に住む者にとって道路は生命線といえる。国会で道路特定財源の廃止論がまかり通っているが、過疎斬り捨ての乱暴な議論である。地方住民はもっと怒りをぶつけるべきである。それは選挙で答えを出すしかない。
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1432 地方の生活道路をどうするのか 古沢襄

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