福田恒存『福田恒存評論集12 問い質したき事ども』(麗澤大学出版会)。清水幾太郎の「転向」に疑問符、あれは「出トチリ」と批判。
刊行の始まった全集、第二回配本は第十二巻に飛んで「問い質したき事ども」。しかも冒頭は清水幾太郎批判である。
清水が『転向』したついでに、保守論断で当時もっとも派手に「核の選択」を『諸君!』に書いて、保守論客もあっと驚いたが、当時、福田はそれを読む暇がなく、しばし経って読み直し、これは「出トチリ」に過ぎないと激しい批判を書いた。
1980年『中央公論』誌上である。
評者(宮崎)は『中央公論』をあのころは毎号、購読していたので真っ先に読んだ。この年の記憶が、じつは個人的にも鮮明である。
六月十五日を期して(安保改訂反対デモで、その二十年前に樺美智子さんが死んだ日)、米国からフォード前大統領以下、上下両院議員と知事ら合計四十人ほどを東京に呼んで「日米安保条約二十周年記念セミナー」を開催する準備が進んでいた。
米国は大統領選挙の最中、カーターを支援した宮沢喜一が官房長官で、ことあるごとにこの企画を妨害した。後日、レーガン当選と聞いたとき、宮沢は数時間、口がきけなかった。
セミナーの日本側は岸信介氏が議長格。実態は加瀬英明氏、三好修氏の「日本安全保障研究センター」と米国『ヘリティジ財団』だった。当時、ヘリティジ財団はいまほど有名ではなく、共和党系列のシンクタンクの一つという認識だった(レーガン政権に大量の人材を送り込んで、半年後にはいきなりワシントンの主流となるのだが、それは後日譚)。
準備のチームに自民党、民社党の国防議員らが支援した。当時の国防族の長は三原朝雄衆議院議員。裏方は小生やら三原朝彦氏(いまの衆議院議員)。イベントは、政治的タイミングが合わず、二ヶ月延びて同年八月末に東京で開催され、「安保条約の再改訂を検討しよう」ということになった。
そうこうするうちに保守陣営のなかで大きな声となったのが「安保改定」議論なのである。
片務条約から、日本の主権をもっと重視した双務条約へというのが基本である。翌年に「安保改定100人委員会」が日本で発足し、加瀬俊一氏が議長となって、多くの保守系文化人、学者が駆けつけた。
じつは清水幾太郎氏は、この準備会に何回か顔を出された。しかし「最初の発起人には私の名前は出さない方が良いでしょう」と言っていた。
『百人委員会』の動きは米国議会で先に取り上げられたので、記者会見は内外記者団が押しかけ、米国マスコミも大きく取り上げた。そして爾後、まったく不思議なことに、この日本側からの安保改定議論は掻き消える。
福田氏の評論集で、この清水批判の箇所を読み返しながら、なぜか当該会議の準備で東京プリンスホテルに一週間ほど泊まり込んだ記憶が蘇った。
▲「わからない」と三島事件を表した福田氏の後日譚
さて、清水批判など小生にとっては、どうでも良いことである。むしろ福田氏が三島由紀夫を論じた文章をこの巻に見つけて「えっ」と声を挙げたのだ。事件後、福田氏は三島を論じたことがなかった筈だから。
かく言われる。(直後にわからない、わからないと新聞に答えた氏は、)「もし三島の死とその周囲の実情を詳しく知っていたなら、かはいそうだとおもったであろう、自衛隊員を前にして自分の所信を披瀝しても、つひに誰一人立とうとする者もいなかった。もちろん、それも彼の予想のうちに入っていた、というより、彼の予定通りといふべきであろう。
あとは死ぬことだけだ、そうなったときの三島の心中を思うと、いまでも目に涙を禁じ得ない。
が、そうかといって、彼の死を「憂国」と結びつける考えかたは、私は採らない。なるほど私は「憂国忌」の、たしか「顧問」とかいう有名無実の「役員」の中に名を連ねてはいるが、毎年「憂国忌」の来るたびにそれをみて、困ったことだと思っている(中略)。二十年近くも(憂国忌を)続けて行われるとなると、必ずしも慰霊の意味だけとは言えなくなる」(中略)「憂国忌の名はふさわしくない。おそらく主催者側も同じように悩み、その継続を重荷に感じているのではなかろうか」と言う。
理由は三島は自分の営為を「失敗」と考えて死んでいったからだ、と推論している。
福田氏の推論が正しいか、どうか。おそらく間違いであろう。三島は「自分の行為は五十年後、百年後でなければ分からない」と、その営為をむしろ後世の再評価に賭けていたのであるから。
ともかく、この短い文章だけが、三島事件から十八年後、昭和六十三年に初めてかかれた「三島事件」への福田氏の感想である。しかも、不覚にも、それから二十年も経って、小生はじめてこのコメントを知った。
なぜ記憶にないのか初出を調べたら、これは昭和六十三年の「福田恒存在全集」第六感の「覚え書き」として、つまり全集の購読者用に書き下ろされた覚え書きの中で記されてからである。
▲小林秀雄『本居宣長』を本格批評
もうひとつ。小林秀雄の「本居宣長」を論じられつつ、面白いことを吐露されている。
連載中、とびとびにしか読む時間的余裕がなかった福田氏は、小林秀雄自身から「単行本を読むまで次は会わないことにしよう」と言われ、そのまま三年会わなかった、というのである。三年という歳月!
ようやく三年して時間的余裕が生まれ、氏は二週間もの時間を、この小林の大著を読むだけのためにあけて、ゆっくりと、『本居宣長』と向き合った。それが昭和五十五年の夏であったという。
この箇所は妙に納得できる。
小生自身、最初に小林秀雄の『本居宣長』を四日ほどかけて読んだものの、チンプンカンプン、古典から書誌学的教養がないと分からない。
オカルトがわからなければこの本はわからないと悔し紛れの理由をつけて、そのまま三十年近くも放擲したままの本であるからだ。
しかも、福田氏の文章からも三十年近くが経過して、まともな小林秀雄の本居宣長を論じた論文は、昨年の西尾幹二氏『江戸のダイナミズム』までほとんどなかった。
いずれにしても小生にとって福田全集を読み返していく営為の過程は同時に楽しい思考空間でもある。
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1433 大常識家・福田恒存の思想系譜 宮崎正弘

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