旧家の蔵は歴史や民俗学の宝庫だ。わが町の郷土史をぱらぱらと見ていたら、農家の蔵から発見されたという古文書が紹介されていた。題して「万延元申(1860)年三月三日珍事控」。
幕府の井伊直弼大老が襲撃された「桜田門外の変」を伝えるニュース速報で、増上寺の輪番より村名主に送られ、次から次へと筆写されて広まったようだ。
当時は報道や出版は厳しく制限されていたから、トップシークレット扱いだったに違いない。「人の口に戸は立てられない」というが、この事件は口コミもあって数日で全国に知れ渡っただろう。徳川幕藩体制の最終章がこの事件でスタートする。以下、訳す。
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井伊掃部頭(かもんのかみ)殿、今朝5時、登城のみぎり、桜田御門外、上杉家辻番所より西の方で、浪人体の者15、6人、左右より供先(行列先頭)ならびに駕籠へ切りかかった。
双方戦いになり、掃部頭殿の家来6人が即死したほかに傷を負った者もいる。浪人体の者7、8人は寅(北東)御門の方へ駈けていった。4人は日比谷御門より八代洲河岸通りの、水戸家と縁のある脇坂殿表門より入り、水戸家浪人と名乗った。負傷しているので手当てをした。
浪人は増山殿辻番所の脇に死んでいるほか、1人は龍の口の往来にうずくまり、負傷して自害している。また1人は手傷を負っているが、首を引っさげているため、遠藤坂辻番所が取り押さえた。首は掃部頭の駕籠脇警護を勤めていた者の首だと言う。
掃部頭殿は屋敷に戻ったが、重傷のようで、駕籠のまま座敷に上げた。供回りの6人の死骸は台に乗せて屋敷へ引き取った。浪人の内1人は掃部頭殿の屋敷に連行された。
この事件のために、桜田、馬場先、和田倉、半蔵、竹橋などの御門は通行禁止になった。浪人の内3人は逃亡し行方は不明である。脇坂殿屋敷に入った4人は願書を持参し差し出したと言う。
襲撃したのは水戸殿の家来で、掃部頭殿の登城途中を多人数で襲い、短筒(短銃)などを乱射し、双方にけが人が出た。心得違いの者が出るかもしれないので、屋敷や夜間の門の出入りは厳重にするなど、重役のものは相談するよう心得ること。
三月三日 松平大隈守家来 奥沢三衛門
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松平大隈守の屋敷は現場にあった。生々しい現場報告である。ところで万延元年と言えば、正月にアメリカへ向けて咸臨丸が横浜を出航した。日本に戻ったのは5月だから、一行はこの大事件を知らなかった。艦長の勝海舟が語る。
<浦賀へ着いたから、おれは一同を入浴させてやろうとしているところへ、浦賀奉行の命令だといって捕吏(とりて)がどやどやと船中へ踏みこんできた。
おれも意外だから「無礼者め、何をするのだ」と一喝したところが、捕吏がいうには「数日前、井伊大老が桜田門外で殺された事件があったので、水戸人は厳重に取り調べねばならぬ」というから、おれも穏やかに「アメリカには水戸人は一人もいないから、すぐに帰れ」とひやかして帰らせたよ。しかし、おれはこのとき桜田の変があったことを始めて知ってこれで幕府はとてもだめだと思ったのさ>(「氷川清話」)
わずか8年後に徳川300年体制は潰(つい)えた。
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