国会というところはオラが現役で取材に走り回っていたころは「表の舞台」と「楽屋裏」の比重は3:7くらいだったような気がする。それが最近はテレビが総理・閣僚・党役員らの「ぶらさがり」というのをやるようになった。
また朝から晩まで、土曜日曜休日でもテレビに政治家が出ない日がない。低俗なショウでもお笑い番組でも何でもかんでも節操なく、どこのTV局だろうと出まくる。選挙区に帰って地元の声きくより、テレビに出た方が票になるからだそうだ。
昔もタレント議員というのはいた。漫才などの芸人が参議院の全国区などに出て、顔が知られているというだけで当選する。彼らは実は政党の員数合わせであり、実際には「何の役にも立たない」こと、当時は国民も本人も心得ていた。永田町での役回りもそれ相応に上手に回していたのである。
最近はガラッと変わった。お笑い芸人が議員になろうというのでなく、議員がお笑い芸人になろうというのである。そう言っちゃあなんだが、総理総裁にもなろうかという御仁まで「芸人」の真似をし、やって見せる。「アッ、そう」なんて、某候補もその口。
国民の方は「赤絨毯(国会)が身近になった」と思うかも知れないがそれはまったく逆。バーチャルによる錯覚。かえって政治の本質が見えにくくなった。「表」と「裏」の比重は1:9くらいになったのではないか。
「総理総裁は世論の支持率高くあるべし」―――新聞が「弊社の世論調査」という偉そうな「ええ加減にやった物差し」で内閣の支持率を煽る。コマーシャルで儲けたいテレビがこれに便乗する。
純ちゃんはこれを利用し、晋ちゃんはこれで潰された。しかしこうした風潮は、冷静に考えればすぐ分かることだが「デマゴーグ」に過ぎぬ。ファシズムの一歩手前だ。
宮崎県の知事に当選した「ヒガシなにがし」かは芸人くずれ。それまでの官僚知事が「チョー腐敗」したので県民有権者、選択の余地がなかった。
とはいえ案の定というか、当然というか、民放テレビが”ノーギャラ”でひっぱり回し、使いまくる。ヒガシ○○も次の選挙があるからこれに乗る。
県民のための知事というよりテレビ会社のための知事。とにかく、地元の県庁には「チョーいない」・・・ほんのこつ、結局は選んだ宮崎県民がコケにされよる。
こんど大阪浪花の府民が選んだ知事のことはよう知らん。ありゃあまあガキ、ジャリタレじゃねえの。
安倍内閣の命取りになった「テロ特措法案」。福田内閣にチェンジして行われた表舞台での国会の論戦。あれも何たるざま。核心ついた議論などは全くなし。
ドゥーナッシング。守屋ちゃんの接待ゴルフの話ばっかり・・・下世話な話は話として、肝心の論点をずらすな!だ。況や衆議院差し戻しの本会議採決に民主党代表(小沢)がいねえ(棄権する)のだから驚く。「民主党は本当に特措法に反対だったのか」―――国民の多くはいま首を傾げ、その真相はいまも伝わらない。
マスコミが報じる政治というのは「表舞台」であるからして、まあ真実は1~2割。あとの大部分(特に重要なこと)は国民には知らされない。つまりマスコミも知ない、というか「よう取材せん」のだ。
新聞テレビは真相伝えずただはしゃぐだけ。マスコミがはしゃぎ、そして何よりも政治家がふざけている。いまの日本ノー天気。(了)
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1456 芸人化する政治家 山堂コラム202

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