1479 日本人の眼で見つめる 古沢襄

日本という国家を日本人の眼で見つめる必要性がある。敗戦後、アメリカによって教育された日本人の眼ではない。これは復古主義ととらえられそうだが、単純に日本の伝統、文化に回帰する意味ではない。それは進化し、変貌を遂げる日本を自己否定することになりがちだからである。
私は明治維新という革命を再認識することが、必要だと思っている。司馬遼太郎の小説は個々の史実、人物評価で批判を浴びる点がなしとしないが、日本人の手で国家改造を成し遂げた精神改革という大きな流れを、小説という形式で取り組んだから多くの読者の賛意を得た。
明治維新の思想的な原動力になったのは、水戸藩の藤田東湖という思想家なのだが、この再認識がまだ果たされていない。西郷隆盛、吉田松陰、橋本左内らに大きな影響を与えた東湖は、安政二年の大地震で圧死している。明治維新の黎明をみることなく、この世を去っている。
戦時中に東湖ブームが起こった。不幸なことに東湖を開明派ととらえるのではなくて、日本主義者ととらえ、戦争遂行の思想的な拠り所として利用された。それが、敗戦後、東湖が顧みられない一因となっている。戦後の一時期には明治維新そのものが、戦前回帰の危険思想として忌避されている。
日本は明治維新で西欧思想を取り入れた国家像を形成している。その意味ではアジアでは特異な近代国家となった。そのきっかけは阿片戦争の情報と幕末に押し寄せた欧米列強の軍艦による威圧・示威行為であった。
NHKの大河ドラマ「篤姫」に出てくる薩摩公・島津斉彬は、早くから九州第一の識見を持つ開明派の名君として知られたが、東湖は西郷を通して斉彬の人となりを知り、斉彬の一子・虎寿丸が六歳で死去した時には、江戸の薩摩藩邸に赴いて弔問している。
酒豪で知られた東湖だったので、斉彬は虎寿丸の守り役だった中山次左衛門を接待役に命じて、山海の珍味を出して酒を勧めた。しかし東湖は酒を一、二杯口にしただけで、山海の珍味には箸をつけなかった。訝った次左衛門は「先生は胃でもこわされたのですか」と問うと双眼に涙をたたえて、次の一句を示した。
つかへにし君ははかなくなるぬとも 忠てふ道に二筋やある
西郷隆盛や大久保利通は東湖を敬慕して近づき、薩摩藩邸に東湖を招いて、糾合方(時事研究会)が持たれた。樺山三円、有村俊斉、大山綱良、有村雄助、柴山愛二郎、伊地知龍右衛門らは東湖の教えを受けている。
斉彬は日本が欧米列強に犯されない国家造りをするためには、西洋科学の長所を取り入れ、進歩主義によって国防を充実させるという見識を持っていた。東湖から水戸藩の開明思想を学んだ斉淋は水戸列公に次の書簡を送った。
軍艦などの儀も私方にては、よき手段も御座候へ共、存候ばかりにて、中々行われ申さず、残念に奉存候。
国防上、大艦・巨砲主義に立った水戸列公に賛意を示した書簡である。しかし単純な攘夷思想ではない。日本が西欧文明を積極的に取り入れ、国家改造を成し遂げる思想が根底にある。明治維新の前夜に、これらの動きが顕在化しつつあった。
日本がアジアでいち早く近代国家に脱皮したのは、日本人が危機感を持って、自ら国家改造に取り組んだことにある。他国から強制されたものではない。
ひるがえって現在は、自立した日本という意識が稀薄である。自立思想が欠如したまま欧米化の道に迷い込むのは危うい。近代化をいち早く成し遂げた日本は、清国という異民族支配から脱却しようとした孫文ら中国の革命思想に大きな影響を与えた時期がある。その原点である明治維新に、もう一度、思いを致す時期にあるのではないか。
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