1493 霰降る愛犬との散歩道 古沢襄

愛犬バロンと散歩にでたら霰(あられ)に見舞われた。昨日の午後のことである。道路が小さい白い塊で、みるみるうちに真っ白になった。ほんの僅かな時間。ふっと霰は俳句の季語ではないかと思った。
女房のオヤジが国鉄職員を退職した後、仲間たちと俳句に興じていた。私も学生時代に俳句の真似事をしたことがある。
メーデーの空は晴れたり ひばり鳴く
俳句の先輩から”メーデー”と”ひばり”の季語がダブっている。東京のど真ん中でひばりが鳴く筈がない。頭で造った俳句はダメだと散々だった。若かったから、頭にきて俳句は老人の遊びとタンカを切ってやめてしまった。
母も俳句をやっていた。夫の出征の日に詠んだ句。
君征く日 軒端の足袋の 乾きけり
季語がないじゃーないか、と母を冷やかしたが、いい句だと思う。情感が漂っている。三十七歳の若さで未亡人になることを予感させる寒々とした情念が、短い言葉で伝わってくる。昭和二十年三月三日のことであった。
翌年の五月三日、シベリアに抑留された父は、バイカル湖の畔にあるソ連の病院で戦病死している。三十九歳であった。父も出征に当たって達筆な字で備忘録の最終ページに一句を書き遺していた。
花咲きぬ 牛となりても嵐山 御幸のくるま ひかんとぞ思う
私は久しく父の句だと思っていた。出征の前日、信州に疎開していた一人息子の私に会いにきて、トンボ帰りで東京に戻った。慌ただしい中で和歌を詠む余裕があったのか、と思っていた。
この和歌の主は西郷隆盛。藤田東湖の研究家だった父は、東湖を敬愛してやまなかった大西郷が好きであった。大西郷は東湖と同じ思想家だったと位置づけている。大西郷が詠んだ和歌の中から選んで、筆書きしていた。
俳句にしても短歌にしても短い言葉で表現する特殊な世界。西欧の詩の世界と違う表現方法である。中国の漢詩をさらに日本流にした風雅な世界である。
通信社では記事はできるだけ短く表現をする様に教育される。新聞記事とは違う。速報、第一報、第二報とたて続けに記事を送り、最後に記事本文をまとめる。夕刊締め切り、朝刊締め切りの時間的な余裕がある新聞社と違って、刻一刻が締め切りである。
共産党の徳田球一氏が北京で客死したのは昭和二十八年(1953)10月14日。昭和三十年(1955)になって初めて公表されている。
党本部で重大発表があるといわれて共同通信社は数人の記者が出た。「同志・徳田球一が北京で死去」で一人が立ち、本部内の電話でフラッシュと称する速報を社会部に叩き込む。ついで二人目が記者会見の途中で立ち続報を送る。三人目も同じ。
これに合わせて本社では別の記者が調査部から徳田球一氏の資料をもとにして経歴や業績を記事化する。最後まで記者会見場に残ったベテラン記者が、記事全文を書き直すというのが通信社の取材パターン。
鉛筆を舐めながら記事を書く余裕はない。メモの走り書きをみながら勧進帳で記事を送らねば速報戦に遅れをとる。通信社の記事は短く、コマ切れになったものを繋ぎ合わせる宿命を帯びている。
速報こそ通信社の命(いのち)なのだが、その半面、記事に人を打つ情感が伴わないきらいがある。業界用語でいうと”柔らかさ”に欠ける。
多少なりとも文学の世界を志した時期があったので、私は通信社記者の記事にはずーと違和感を持ってきている。短い記事で、しかも人に訴える情感を持たせるのは、実は至難の技。時折、俳句を放りださないでおけば良かったと思うことがある。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(2月10日現在1501本)

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