1499 乃木さんのこと(上) 平井修一

子どもの頃、母はよく言ったものだ。「のぎさんにしてお食べ」「今夜はのぎさんだよ」
うどんにご飯を交ぜたもので、まあ素食だ。給料日前の数日間は、おかずがうどんだけ、豆腐だけ、カボチャだけという素食が続いたものである。昭和30年、日本は皆貧しかった。
その「のぎさん」だが、乃木大将のことといつしか理解した。贅沢をせずに素食で耐えた偉い人、日露戦争の英雄というイメージだった。それは父母から引き継いだものだ。
その乃木さんのことを本で読んだのは司馬遼太郎の「坂の上の雲」と「殉死」で、司馬は乃木さんを痛罵している。
<乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった・・・筆者が軍隊にとられ、満州にゆき、旅順の戦跡のそばを通ったとき、「爾霊山(二〇三高地)には砂礫にまじっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか、
雨がふれば人のあぶらが浮かんでは流れる、といったような、いわば観光案内ふうの話をきかされ、そのとき、子供のころから持ちつづけてきた多少の疑問をあらためて感じた。なぜ、これだけの大要塞の攻撃にこのひとのような無能な軍人をさしむけたのか、ということである>(「殉死」)
もうバッサリ。実際のところ、どうなのだろう。
以前から思っていたことだが、司馬は漫画家の水木しげると似ている。自分の戦争体験を通してしか大東亜戦争を評価できない。「ひどい目に遭った」、そうだろうな、「過酷な日々だった」、
そうでしょう、そして「あの戦争は間違っていた」となる。木を見て森を見ずで、木がトラウマになってしまい、あの戦争を冷静に俯瞰することができずにいる。司馬は日清、日露までの戦争は描けても、“乃木を淵源とする精神論の、無能なる軍事技術者に引っ張られたそれ以後の戦争”を呪っているから大東亜戦争に触れた作品は非常に少ない。
<もともと日本陸軍は海軍とはちがい、装備で世界第一流だったのは日清・日露戦争前後だけで、あとは明治38年制式の歩兵銃を最後まで主力兵器として世界第2流の軍隊だった。それを国家が国民をいつわって世界一と信じこませていたのである>(「歴史と小説」)
<(日露戦争の旅順での)これだけのばかばかしい失敗が、(日露)戦後、国民の前で検討され解剖されることなく、それをむしろ壮烈悲愴という文学的情景として国民にうけわたされたところにいかにも日本らしい特徴があり、そのことが、張鼓峰、ノモンハン、太平洋戦争という性懲りもない繰りかえしをやってゆくもとになったのである>(「ある運命について」)
日本陸軍は無能であり、その象徴が乃木さんだと司馬は繰り返すが、本当か。戦後のアメリカによる自虐史観に洗脳されているのではないか。終戦直後の昭和20年9月5日、東久邇宮総理は施政方針演説でこう語っている。当時の多くの国民の思いを代弁していると小生は誇りに思う。
<征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、冱寒(ごかん:非常な寒さ)を凌(しの)ぎ、炎熱を冒(おか)し、具(つぶ)さに辛苦を嘗(な)めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて其の職務に盡瘁(じんすい:力を尽くす)し、銃後国民は協心戮力(りくりょく:力をひとつにする)、一意戦力増強の職域に挺身(ていしん)し、挙国一体、皇国は其の総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて参りました、
固(もと)より其の方法に於て過ちを犯し、適切を欠いたものも少くありませぬ、其の努力に於て悉(ことごと)く適当であったとは言い得ざる憾(うら)みもあります、併(しかし)しながら凡(あら)ゆる困苦欠乏に耐えて参りました一億国民の此の敢闘の意力、此の盡忠(じんちゅう)の精神こそは、仮令(たとえ)戦いに敗れたりとは言え永く記憶せらるべき民族の底力であります。(続く)>
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