1504 乃木さんのこと(下) 平井修一

ウィキにはこうある。
<乃木希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日(嘉永2年11月11日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。
乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過した。
また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。
山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。
日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史好きの人たちの間でも度々議論になっている。乃木無能論は日露戦争当時からあったが、これが一般的になったのは、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』によってであろう。
乃木について厳しい評価をした司馬の『坂の上の雲』発表後すぐに、乃木擁護論が発表されるなど大きな議論ともなった。>
引用ばかりで恐縮だが、以下はネットで見つけた上智大学名誉教授・評論家の渡部昇一氏による『福田恆存評論集 第8巻 教育の普及は浮薄の普及なり』の書評だ。
<香川県出身の教育学の教授の私宅を訪問した時、雑談の中で戦争に触れた折に、この先生は「乃木将軍の悪口を言う奴は許さん」と言われた。戦争直後の焼跡の仮住宅の中である。
戦前の少年のころ、乃木将軍は全日本人から英雄として尊敬された。ところが戦後は「乃木は愚将だった」ということが一般化してしまった。特にそれを広めたのは司馬遼太郎の『坂の上の雲』が広汎な読者を持ったからである。
福田恒存はその乃木を、戦後の日本でもっとも雄弁に、もっとも説得的に、もっとも深く同情して弁護することに成功した人である。福田の「乃木将軍と旅順攻略戦」という四十数ページの論考ほど、評論家としての福田の特質を示すものはない。
福田は自分が戦前に旅順を訪れた時の印象から始める。
それはロシアが20万樽ものコンクリートで完璧(かんぺき)に築城し、何百もの重砲や機関銃を備えた急峻の地で、半身を隠すほどの凹凸すらないところであった。
その攻略を命ぜられた乃木将軍の苦しい立場を思った時、眼頭が熱くなったという。この時の体験を福田は戦後も忘れなかった。
戦後はこの攻防戦に何も知らずに駆り出された数万の兵士や遺族の悲しみに同情する言葉だけが語られた。
しかし福田によれば、乃木将軍自身も何も知らずに駆り出された一人だといえるのだ。更にいえばこの乃木将軍の悲劇的な運命は、明治以来の日本の運命の象徴であったともいえると指摘する。
乃木将軍が日本の象徴であるなら、旅順要塞(ようさい)はヨーロッパ列強の象徴であった。
福田は白玉山陳列館で見た当時の日本軍の貧寒な将校服と、ロシア軍将校の豪華な毛皮の外套(がいとう)にもその象徴を見いだしている。そして丁寧に乃木が愚将でなかったことを示す。
福田の論考はこのように常に明快で、説得に富み、戦後の風潮に媚(こ)びない。紀元節論でも教育論でも、すべて古くなっておらず新鮮で刺激的なのである。>
「福田恆存評論集」をアマゾンに注文した。読み終えたら再びレポートしたい。
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