伊藤正氏の連載「トウ小平秘録」は掛け値なしに面白い。それはまた、私が現役時代に解くことが出来なかった課題を見事に謎解きしてくれる。回顧録というよりは、新しく発掘されたニュースが散りばめてある。
私は蒋介石の長男・蒋経国氏と記者会見した初めての外国人記者の一人だった。当時の蒋経国氏は悪名高き特務(公安)の親玉として人前には姿をみせない謎の人物であった。国防部長の要職についていたので、ベトナム戦争に国府軍を派兵するかが、国際的な関心事であった。すでに韓国軍はベトナムに派兵されていた。
昭和41年(1966)1月、台湾に渡った私たちは蒋介石総統と記者会見するアポイントは取ってあった。日本人記者団の幹事(台湾側は総幹事長とたいそうな名前をつけてくれた)は私。岸元首相の担当記者だったので、台湾側との交渉に便利であった。
記者団は謎の人物・蒋経国氏と会うことが最大の目的であった。東京の岸事務所と連絡をとりながら、接待役だった荘南園陸軍大佐にも繰り返し要望していた。かくして岸事務所の後押しもあって蒋経国氏との記者会見が実現した。
会って話をすると小太り蒋経国氏は、特務の暗い印象を与えない人物で、私たちの質問にも明快に答えてくれた。その後。蒋経国氏は東京にもやってきたが、その都度、私たちとは旧知のごとく記者懇談に応じてくれている。
記者懇談で「オヤッ」と思ったことがある。大陸中国との関係について「政治七、軍事三です」と言い切った。国防部長なのだから「軍事七、政治三」というべきであろう。この謎は解けなかった。蒋介石の死後、蒋経国氏はトウ小平氏とのパイプを使って、水面下で中国との「統一」を探っていた。それが果たせぬまま1988年1月13日に急死している。伊藤氏は、その事実を実証してくれた。
<1971年のニクソン米大統領訪中計画発表(実現は72年2月)に次ぐ中国の国連加盟(台湾は脱退)以来、台湾の国民党政権は「経済立国」に活路を求めた。
79年には、二つのショックが蒋経国(しょう・けいこく)総統率いる国民党政権を見舞う。米中国交樹立と美麗島事件だ。
後者は、台湾で政党設立の自由を求める民主化グループを官憲が大弾圧した事件で、米国を中心に厳しい批判が巻き起こり、国民党の一党支配が動揺した。81年にレーガン政権が登場、その親台政策で米中国交による衝撃は和らいだものの、長くは続かなかった。
レーガン大統領は83年に「悪の帝国」ソ連との対決のため、対中戦略を一変させ、84年1月には趙紫陽(ちょう・しよう)首相が訪米、同4月にはレーガン氏が訪中して「繁栄した強大な中国」建設への全面協力を約束、実行していく。
84年10月、米国在住の華人作家、江南(こうなん)氏が自宅で暗殺される事件が起こった。同氏は蒋経国氏の民主化運動抑圧を厳しく批判していた。ほどなく、台湾の情報機関関係者の犯行と判明。米国の政府・世論は猛反発し、台湾の民主派の政権批判を活気づけた。
86年9月、蒋経国氏に、党外諸派が新政党結成大会開催中との情報が入る。解散させましょうか、という側近らに、蒋氏は「時代は変わった」とし、新政党「民進党」の創設を容認、国民党の一党支配に終止符を打った。
蒋経国氏はその一方で、水面下で中国との「統一」を探っていた。
それが正式に確認されたのは2005年5月、中国共産党対台湾工作指導室の弁公庁主任だった楊斯徳(よう・しとく)氏の中国誌への証言がきっかけだった。楊氏はその中で、蒋経国氏が86年から87年にかけて、沈誠(しんせい)という人物を密使として複数回北京に派遣し、中国指導部と接触した事実を明かした。
これを機に沈誠氏を含む関係者が重い口を開き、秘密交渉の実態が明るみに出る。沈氏は、香港の会社経営者で、国共内戦時代の蒋経国氏の直系の部下だったという。
関係者の証言を総合すると、沈誠氏は86年6月の訪中では対台湾工作の責任者・楊尚昆(よう・しょうこん)軍事委常務副主席と会った。楊尚昆氏は20年代のモスクワ・中山大学留学中、蒋経国氏のルームメートだった。
楊尚昆氏はその際、「第3次国共合作の構想」を話す。台北に戻った沈誠氏の報告を聞き、蒋氏は「北京の決定権はだれが握っているのか」と聞いた。それがトウ小平氏であるのを承知のうえで、あえて聞いたのは、「トウ氏に話を通す手順を間違えないようくぎを刺したのだ」と沈氏は受け取ったという。
沈誠氏は翌年3月の訪中で、そのトウ小平氏に会う。この訪中は、中国側の招請によるものだった。沈氏はトウ氏に会うなり「私は反共ですよ」とあいさつすると、トウ氏はこう応じたという。
「反共でも構いませんよ。反中でなければ」
トウ小平氏は「一国二制度で、祖国の統一大業を完成しよう」と、蒋経国氏への伝言を沈氏に頼んだという。
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