■第3次国共合作は消えた
1987年3月、蒋経国台湾総統の密使、沈誠氏が訪中した際、楊尚昆軍事委常務副主席は、(1)交渉は共産党と国民党間で、対等の立場で行う(2)まず双方間の協力問題を話し、その後統一問題に入る-と提案した。
楊氏はその後、蒋氏に親書を送り「先生の国家統一への考えを聞き、深い印象を受けた。祖国統一と民族振興は、わが中華民族の崇高なる願望、歴史が国共両党に与えた神聖な使命であり、われわれ一代の手で完成できるよう望む」と伝えた。
蒋経国氏はそれを読んで「彼らには誠意があるものの、事をあせっているようだ。交渉となれば党内の共通認識が必要だが、反対する人もおり、秘密保持の必要がある」と沈誠氏に述べ、交渉体制を整える考えを示したという。
87年7月、蒋経国氏は、49年以来の戒厳令解除を発表、続いて11月には対中民間交流の解禁を決定し、「接触せず、交渉せず、妥協せず」という「三不」政策を自ら放棄。12月には沈誠氏に「北京に交渉に行く人選を終えた。来月初めの党中央常務委で決まるだろう」と話したという。
「トウ小平年譜」によると、87年7月28日、トウ氏はある客人に対し「『中国は一つ』の前提への同意が、第3次国共合作の基礎だ」と述べている。「年譜」が匿名にするのは珍しく、蒋経国氏が沈誠氏以外の密使を送っていた可能性もある。
88年元日、蒋経国氏は報道規制を解除した。野党民進党への柔軟姿勢で支持を広げ、統一交渉に臨む態勢に入ったとみられた。が、1月13日、蒋氏は急死してしまう。蒋氏は糖尿病で入退院を繰り返し、沈誠氏によると、中国側は蒋氏の病状を気にかけていた。
蒋経国氏の死に北京は衝撃を受ける。中国共産党中央は国民党中央に弔電を送り、「一つの中国を堅持し、台湾の独立に反対した」と蒋氏を高く評価した。楊斯徳氏によると、文面はトウ小平氏の指示で作られたという。
トウ小平氏は同年9月、チェコスロバキアのフサーク大統領に、「私の最大の願望は97年まで生き、返還された香港に行くことだ。台湾にも行きたいが、97年までに解決するのは難しいだろう」と話している。
台湾で民進党が産声を上げ、本省人の独立意識も広がっていたが、密使が北京に送られた当時はまだ国民党の天下で、蒋経国氏は絶対的なストロングマンだった。トウ小平氏との“ボス交”による取引成立の可能性は、蒋氏の死で去った。
蒋経国氏の後継総統に本省人の李登輝(り・とうき)氏が就いた後、「祖国統一」は中国側の宣伝文句以上の意味をなくしていく。(産経新聞)>
皮肉なのは蒋経国氏が行った戒厳令解除と報道規制の解除、さらには野党民進党への柔軟姿勢が、台湾人の台湾という意識を育てたことである。国共合作は少数派である外省人の圧政の下では、反対派本省人を圧伏してでも可能であった。それが出来なかったことに歴史の歯車の不思議さを思わせる。
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1510 幻の国共合作構想(2) 古沢襄

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