「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はない」と著書に書いたのはイギリスの女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月31―1904年10月7日)である。
日本では明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人男性1人だけ)。
山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東洋のアルカディア」(牧歌的な楽園)と評した。
1878年に金山を訪れたイザベラ・バードは、ここで長旅から足の容態が悪化し、この先雄勝峠(秋田県)を超えるということもあって、しばらく逗留して足の治療と養生を行った。
新庄からやってきた医師による、西洋医学ではない、東洋医学による治療であった。
彼女は東洋医学に対して懐疑的であったが、それでも足が回復したことで認識を改め、さらに医師の人となりや、首長を始めとする人々の知識欲の旺盛さ、これまでの宿では虻蚊に悩まされていたが、ここで虻蚊を避ける方法を発見したことなどを好意的に記している。
金山町(かねやままち)は、山形県北東部にある人口約7千人の町。最上郡に属する。
町域の4分の3を占める森林からの金山杉と、白壁を用いた「美しく古びる」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクールにおいて受賞実績がある。
<久保田(今の秋田市)や大館、白沢からの手紙もあり、青森県の碇ヶ関、黒石からも手紙を書いている。
久保田では「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである。」と書いている。
津軽・黒石では七夕祭りの幻想的な透かし絵の提灯行列を見て、その美しさに1時間も立ち尽くした、と書いている。今の「ねぶた祭り」の原型だと思われる。>(青森県大鰐町 須藤尚人氏)
イザベラ・バードはまた10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を 1880年”Unbeaten Tracks in Japan”2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。
その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。『日本奥地紀行』は、この普及版の翻訳である。明治期の外来人の視点を通した日本を知る貴重な文献である。
特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
1885年版で省略された部分は『バード 日本紀行』として翻訳されている。
日本奥地紀行で当時の日本をこう書いている。
「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にも遭わず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」
また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、『朝鮮紀行』を書いている。最初の朝鮮訪問は1894年、バード62歳の時のこと。
以降3年のうちに4度にわたり朝鮮各地を旅する。時おりしも東学党の反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化。バードがじかに見聞きした、朝鮮の情勢を忠実に伝える。
バードは1831年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。
アメリカやカナダを旅し、1856年『The Englishwoman in America』を書いた。その後、当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。享年72.
『バード 日本紀行』楠家重敏他訳、雄松堂出版、2002年8月20日、ISBN4-8419-0295-3 583p 15cm(A6)
「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」時岡敬子訳、講談社学術文庫、ISBN:9784061593404 (4061593404) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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