クイズ番組ではないのだが、日本の初代総理大臣は?と問えば、伊藤博文と答える人があるだろう。それでは二代目の総理は?と問えば、ほとんどの人は答えに窮する。黒田清隆(くろだ きよたか)、鹿児島県人なのである。元陸軍中将、軍人であった。
この人物は鹿児島県よりも北海道で記憶されている。
鹿児島では西郷隆盛の人気がいまもって衰えない。盟友だった大久保利通の人気はいまひとつ。西郷、大久保が亡き後は、黒田が薩摩閥の重鎮であった。長州閥の伊藤総理に代わって二代目が黒田総理、薩摩閥が出した初の総理大臣の割に黒田人気がわかない。
不人気とはいわないが、大久保、黒田の人気が鹿児島県でいまひとつ盛り上がらないのは、明治10年(1877)の西南戦争で自刃した西郷を惜しむ想いが、鹿児島県人の心に染みついているからであろう。
黒田は西郷の征韓論に反対し、軍人でありながら内政重視の立場をとった。西南戦争が起こるや官軍が包囲された熊本城の救援のために長州閥の山県有朋の軍が北から駆けつけたが、志気が高い鹿児島士族の前に苦戦している。長州陸軍はまだ建軍間もない時期にあった。
黒田は別軍を率いて熊本県の八代付近に上陸し、鹿児島士族の兵の背後を突く作戦をとっている。そして山県軍を助けて熊本城に入った。黒田が北海道開拓使の時に育てた屯田兵や朝敵となった会津藩士が多く加わった警視庁抜刀隊も投入されている。
黒田にとって西郷と戦うのは本意ではなかったろう。幕末に薩長同盟のため奔走し、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させている。坂本龍馬の活躍の蔭に黒田の存在があった。
しかし黒田は軍人として頭角を現している。鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長に過ぎなかったが、北越戦争においては河井継之助が率いる長岡藩と戦い、長岡城にこもった官軍を救援するため海路から新潟県松ヶ崎に上陸している。敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦行動をとった。この時も山県と行動をともにしている。
戊辰戦争では黒田は秋田に上陸して庄内を背後から攻略する作戦を立てている。これによって米沢藩と庄内藩を帰順させた。
やはり軍人としての資質が現れたのは、箱館戦争だったのでないか。黒田は北海道江差に上陸して、旧幕府軍との最後の戦いの総指揮をとった。箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。さらに敵将・榎本武揚に降伏を勧め、戦後は榎本助命を強く要求している。
明治七年、陸軍中将となった黒田は北海道屯田憲兵事務総理を命じられ、翌年に参議兼開拓長官となった。この時に黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用している。並の軍人ではない。
黒田内閣で大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されている。晩年の黒田は酒を飲むと酒乱の気があったという。しかし酒が入らない時の黒田は、旧幕臣との付き合いが濃密となり、特に外交分野などでは榎本を重用した。黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めている。薩摩閥にはまらない鹿児島県人といって良いのかもしれない。
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1538 二代目の総理大臣は? 古沢襄

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