1539 太宰治と林聖子さん 古沢襄

信州が生んだ洋画の鬼才・林倭衛の長女である聖子さんが傘寿、八十歳を迎える。三月十六日の誕生日の前日、新宿の「風紋」でお祝いの会を催すという案内状を頂いた。骨髄腫の身なので遠慮したという思いがある一方で、何としてでも会にでたいという想いが交錯している。
聖子さんとの付き合いは六〇年安保の当時からだから四十数年にわたる。新宿の風紋という名の洒落たバアの女主人であった。聖子さんが林倭衛の遺児であることも知らなかった。信州・上田に縁があることも後で分かった。
ところが聖子さんは私のことを先刻ご承知。左様「ジョウ君」と呼びつけにされた。三十二歳になったばかりの聖子さんはまばゆいばかりの美女。呼びつけられるのは癪だったが、夜になると自然と足が風紋に向いた。カウンターの片隅で作家の檀一雄が黙然とグラスを傾けていた。
衝撃的だったのは、私の母と聖子さんは毎週のように麻雀を囲む親友だと知った時である。母には昭和作家・武田麟太郎の愛人だった藤村千代さんという親友がいる。東京・中野の千代さん宅が麻雀を囲む場所であった。母は信州・上田の生まれ。
おまけに母の弟は林倭衛の絵の蒐集家で、上京すると日動画廊で林倭衛の絵を買い漁っている。私が知るだけで十数点を所有していた。個人で林倭衛の絵を所有している筆頭であった。
すべてが分かってからは「ジョウ君」と呼びつけにされても気にならなくなった。三歳年上のお姉さまということで敬意をはらうしかない。林倭衛の絵も機会があるごとに見ることにしている。
傘寿の案内状に太宰治の「メリイクリスマス」の美少女シヅエ子ちゃんこと、風紋の林聖子さん・・・とある。迂闊にも、このことは知らなかった。檀一雄の親友だった太宰治も風紋に通った時期があったのだろうか。
「メリイクリスマス」の一節。<新宿の、あれ、……あれは困る、しかし、あれかな?
「笠井さん。」女のひとは呟(つぶや)くように私の名を言い、踵(かかと)をおろして幽(かす)かなお辞儀をした。
緑色の帽子をかぶり、帽子の紐(ひも)を顎(あご)で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、三の少女になり、私の思い出の中の或る影像とぴったり重って来た。「シズエ子ちゃん。」>
この物語はつづくのだが、それは「メリイクリスマス」を読むことにして頂こう。聖子さんは昭和三年生まれ、十二、三歳の少女の時期は昭和十五、六年に当たる。林倭衛が浦和市郊外に住み、次女の葉子さんが生まれたばかり。
聖子さんの母・富子さんは病身だったから、林倭衛は香川県生まれの操さんと恋をして同棲していた。昭和十二年に富子さんは別居、浦和に移転した時には聖子さんの実母はいない。聖子さんと葉子さんの母親は違う。
多感な少女時代の聖子さんを太宰治はみていたのであろうか。しかし林倭衛の日記をみても檀一雄や太宰治との交友はでてこない。武田麟太郎との交友もみえない。
推測だが、「メリイクリスマス」のシズエ子ちゃんは、風紋の女主人・聖子さんから描いた空想の世界なのかもしれない。
もうひとつ分からないことがある。千代さんも母も武田麟太郎と縁があった。それが、どういういきさつで聖子さんと結びついたのであろうか。聖子さんのことを人より知っていたつもりだが、よくよく考えると知らないことが多すぎる。やはり無理をしてでも傘寿のお祝いに駆けつけるべきなのかもしれない。
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