蒋介石が台湾に進駐してきてから半世紀以上も経った。進駐なんてものではない。大陸で毛沢東の中共軍に破られて、ほうほうの体で逃げ込んできた。親日的な台湾人は今でもそう思っている。
オランダ人やポルトガル人が「フォルモサ(Formosa)」と呼んだ東支那海の平和な島が蒋介石の率いる国府軍と特務警察によって支配され、大陸反攻の基地になった。フォルモサはポルトガル語を原義とする「美しい」という意味だという。
40年ほど前のことになるが、台湾に渡った私は台湾人(本省人と称する)から「二・二八事件」の真相を聞かされた。台北のタクシー運転手たちは特務警察の手先なので、タクシーの中では話をしてはいけないと言われ、キャバレーの騒がしい中でのヒソヒソ話で、この残虐な殺戮事件を教えて貰った。
二・二八事件は台湾ではタブーだったが、一九八九年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』で全世界が知ることになる。この映画はヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞している。
二・二八事件は日本軍に代わって台湾に進駐してきた国府軍の兵士が台湾人に対して強姦、強盗、殺人などの狼藉を働き、復讐心を持った者の蜂起を招いたことが背景にある。
直接のきっかけは1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた台湾人女性が取締官から暴行され、翌日、これに激高した台湾人が市庁舎への抗議デモ。これに対して憲兵隊が発砲、たちまち台湾全土に抗議運動が広がった。
当時、まだ大陸にいた蒋介石は台湾行政長官兼警備総司令・陳儀の報告を受けて、大陸から第21師団と憲兵隊を派遣して大弾圧を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、約二万八千人が殺害・処刑されたという。正確な犠牲者数は今もって分からない。
二・二八事件について蒋介石側は、台湾共産党が中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったという説をとる。長官府の陳儀が、台湾人との対話の姿勢を一時は示し、中国共産党に通じていたとして、1950年6月18日に台北市で公開銃殺刑に処せられた。陳儀の妻は日本人。
私が渡台した時には二・二八事件は政治的に抹殺され、公に聞くことは不可能であった。とくに日本人記者に対する警戒は厳重を極めていた。私が二・二八事件のことを知っていたのは、東京に逃れてきた関係者たちからである。彼らは台湾独立運動を志している。
しかし、現地に行ってみて台湾人がこの事件を忘れていないことを肌で感じることができた。蒋介石一派の外省人を「チャンコロ」と呼ぶ者もいた。怨念の言葉で復讐心の火は消えていない。面従腹背の心といえる。
台北市は外省人支配の政治都市であった。しかし南部の高雄市は経済中心の都市である。多くの台湾人が経済的な実力を蓄えている。これも半世紀の間に外省人と本省人の間で婚姻関係が結ばれ、生粋の蒋介石一派による外省人は、むしろ少数派になっている。
今では二・二八事件はタブーではなくなった。それと同時にこの悲劇が風化している気がしてならない。いつまでも復讐心に駆られるのは良くないが、二・二八事件は犠牲となった人たちの怨念を鎮めるためにも風化させてはならない。きょう28日はその日である。
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