1584 台湾人による二・二八事件記録 古沢襄

台湾の二・二八事件について「台湾を憂う友の会」が詳しく発表している。柯宏龍という台湾人(本省人)の手によるものだ。ことしは三月二十二日に総統選挙がある関係で、台湾全土で犠牲者を追悼する記念行事が盛大に行われた。
謝長廷候補を擁立する与党・民進党は国民党の責任を追及し、国民党は馬英九候補が謝罪するなど二・二八事件がクローズアップされたという。選挙の時だけの争点とはせずにして貰いたいと願っている。
多くの知識層が犠牲になったからだ。日本の敗戦によって大陸から上陸してきた蒋介石の国府軍の知的レベルは高くない。将校クラスは日本の陸軍士官学校を卒業した者がいるが、兵隊は雑軍といってもよい。
元をただせば同じ漢族なのだが、国府軍は占領軍のつもりで進駐してきている。乱暴、狼藉のかぎりを尽くしたのは、九百万の台湾人に対して百万の国府軍だったから、軍と特務警察による強圧政治を行ったことに原因がある。
叛乱を怖れて戒厳令が長期にわたって敷かれた。少数支配の圧政であった。このような悲劇を繰り返さないためにも二・二八事件は長く記憶されねばならない。
<台湾の台北でタバコを細々と売ってその日の糧にしていた寡婦が憲兵に摘発された。そのタバコを売っていた女性は統治当時としてはごく当たり前なのだが許可は取っていなかった。所謂ヤミたばこを販売していたのである。
当時(1945年終戦)は日本軍が台湾から引き上げ(=引き揚げ)同時に国籍も日本国籍から中華民国へと強制的に変えられた。蒋介石率いる中国国民黨が台灣本土へ上陸をし、それと同時に中國大陸から多くの中国人も流れ込んできた。
流れ込んできた中国国民黨政府の官僚は摂取(原文のまま 接収の意味であろう)した物資や建物、財産等を奪い尽くし、その兵たちは強盗、強カン、殺人など日常茶飯事のような強盗団に早代わり(=早変わり)をした。
中國兵は食料の配給と言うものが無く占領地で各自徴発するのが習いだったから台湾の人にはとんでもない厄介者が来たようなものである。緑豊かでお米も良く取れて豊かだったがその殆どは中國大陸へと運ばれた。
中国国民党の上層部は日本が引き上げ(=引き揚げ)実質そのままに帰国した後、搾取を繰り返し巨大な富を成したのである。現在も台湾の大企業と言われる殆どと、政府高級官僚に外省人が多いのはこの搾取した財産によるものが多い。
台湾の人達は日本人時代には高度な教育を受け、また、日本人が台湾に行った同化政策により日本人の手による様々なインフラ整備等により当時の生活レベルとしてはかなり高かった。
台湾の人にとって不幸なのはその生活レベルや教育レベルが高かった事にも要因があると思われる。そこに何も作りえないまた知識のかけらもない中国人が台湾へ押し寄せ台湾の人たちの衣食住全てを脅かしたのである。
当然台湾の人たちは蒋介石率いる中国国民党や、その兵隊、外省人たちに不満の声が上がり軋轢が生じだした。
事件はそのような時代背景の1947年2月27日台北で起こった。台北の延平北路と南京西路交差点の南京西路側で闇タバコを売って生計を立てていた寡婦、名前を林江邁(当時41歳)を外省人専売局取締り員らがタバコと現金を没収した。
その際に林江邁は許しを請い、現金の没収は許して下さいと懇願したが、専売局員は林江邁の頭を銃で強く強打し、林江邁は近くの外科病院に担ぎ込まれた。
この事件を見ていた台湾人たちはその取り締まり員たち6人を取り囲み抗議をしました。外省人には日ごろからの鬱憤も溜まっていたでしょう。それに旦那さんは日本の兵隊として戦士(=戦死)を遂げています、
人間として同情するのは当然の成り行きでしょう。確かに無許可でタバコを販売していた者が悪いと言う声も聞こえますが相手は女性、しかも1人で子供を育てている境遇でも有ります。
当時蒋介石率いる中國国民黨と中国人が台湾に流れ込んで来た話はしましたが、これによって台湾の経済は一気に崩壊して行ったのです。職を失った方も30万人とも言われています。
そんな中子供を抱えた寡婦に仕事は探しえたでしょうか?また、タバコの販売の許可が下りたでしょうか?おそらくは外省人たちの都合の良いように許可はしなかったでしょう。
台湾人たちの抗議に取り囲まれた取り締まり員たちはその群集たちに恐れを感じたのでしょう。逃げながら群衆に向けて発砲をしてしまいました。運悪くこの銃弾に当たった台湾人の陳文溪が即死をしました。取り締まり員たちは近くの警察局に逃げ込みましたが、台湾人群集は警察局を取り囲み「取り締まり員」の身柄の引渡しを要求しましたが当然のごとく拒否されます。
この取り締まり員による台湾人射殺のニュースが台北全土に広がり、翌日の2月28日になって台湾人の大群衆が台湾総統府(台湾行政長官公署)を埋め尽くしこの事件をきっかけに台湾の行政の改革を要求しました。
この要求に対しての当時の行政長官の陳儀の答えは機関銃の一斉掃射でした。激怒した台湾の人達は、官公庁や中国人の商店を襲撃し中国人を殴打したり、そして放送局を占拠し台湾全島に向けて台北での異常事態を放送しました。こうしてこの2・28事件は終わりのない戦いへと突入したのでした。
月が変わり3月4日には全島規模の騒乱状態となり、台北に全省処理委員会が発足、台湾行政長官の陳儀と交渉を開始しますが、台湾人側の要求と言うのは「台湾人による台湾自治権の獲得」でした。
陳儀はこの交渉に当たってその内容には無関心だったようです。表面的には交渉しているように見せかけ、実は裏で蒋介石に台湾騒乱を伝え援軍を要請していたのでした。
援軍要請を受け中華民国の正規軍二個師団が基隆と高雄に上陸したのは同月8日、9日でした。二個師団と言いますから本格的な戦闘に対する対応だったのでしょう。
処理委員会は陳儀との交渉中だったのでまさか軍隊が来るとは思っても見ないところへ戦争に慣れた軍隊が上陸し、武器も持たない台湾人たちを悲鳴の渦に突き落とし始めたのです。
鎮圧とは言いますがその内容は目を覆うものがあり、兵隊たちは敵地に居るがごとく台湾人へ暴行、略奪、強カン、そして殺戮を繰り広げました。聞くところによると何人かの手のひらを針金でつなぎそのまま海に突き落としたり、機関銃で撃ち殺したと言います。
どちらにしろ蒋介石軍に捕まった人たちは裁判を受ける事も無く処刑されていきました。陳儀も援軍が上陸すると聴くや各地にある「処理委員会」の解散を命じ、関係者の逮捕を始めました。台湾人たちに軍隊にあがなう力はありません。
その後治安維持を名目に「処理委員会」の関係者の逮捕、処刑を敢行しました。戸籍調査の名目で自宅から連行され、行方不明となったりし、資産家は命は取られませんでしたが、莫大な贖罪金を取られました。要は中国人たちはこの機会に台湾人の抵抗を根絶しようとしたようです。
この2・28事件で犠牲になった方は28000人と発表されました。しかし、この数字は記録に残っている者だけの数字ですから実際にはその数倍に膨れ上がると思われます。中国国民党や軍の私的権力による裁判での処刑などはその記録に残っていないのです・・・・・。犠牲になった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
台湾史と有りますが、出来るだけ感情を抑えたつもりですが文中に個人の感情が入った文章が有ると思いますが、それは私個人の感情と言う事で事実関係のみを記憶に留めて頂ければ幸いです。 宏龍 記>
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