私は「あの身体ではアメリカ人その他の外国人の中に入ってスポーツをするのは得策ではない」と思っている。だから、帰国せよと言うのだ。
簡単に言ってしまえば「文化の違い」である。だが、問題はそれほど単純ではないと思う。彼女が「アメリカというシステム」にどれだけ馴染み、何処まで対抗できるかであろう。
アメリカでは物事は須く彼らの体力と体格を基準にして設計されている。それが我々にはどれだけ負担になるシステムであるかは、その中に入ってみなければ解らない。いや、解らない場合だってあると思っている。
それに耐えていくことと、彼らと対等にやっていくことは別問題である。
我々はスポーツ選手ではないから基礎体力のみの勝負をしているわけではないのだ。だが、現実には体力で勝負して、さらに仕事、すなわち頭脳労働の面でも対等になるまでやらねばならない。
体力と頭脳の何れかで対抗できれば良いのではなく、両方を備えていなければならない。そんなことは当たり前であると言いたいだろう。それがどれだけの体力消耗戦かは「やってみなければ解らないじゃないですか」と小泉前首相のように言うしかない。
私は半ば諧謔的に「アメリカの会社で何とか仕事をこなしていくのに必要なものは、口から下だけで頭は要らない」と言って説明してきた。
宮里藍が直面しているのはこの問題であろうと思う。それは、「ゴルフさえ上手ければ賞金も取れて、生活は成り立つ。英語は今でも少しは判っている。向こうに行けば実地訓練で上達して何とかなるだろう」と考えたのではないかと推察している。その点は自分も似たり寄ったりだったから言うのだが。
だが、そこに立ち塞がったのが社会システムと通念の違いだった。そこに体力という基本的な問題が、想像以上の激しさで襲ってきたのだ。
ある時、私の2週間ほどのアメリカ国内の出張予定表を見たサン・フランシスコ駐在の商社員が「こんな無茶な計画では死ぬよ」と警告した。彼はすでに体格と体力の基本的違いを見抜いていたのだった。
現実には猛烈な肩こりと、常に襲ってくる頭痛に悩まされていた。国内のホテルのマッサージ師にも何度も注意された。
この違いは正直に言って想定外だった。対策は自分の身体を慣らす以外にはないのである。しかも、我々には時差が待っているのだ。そこにさらに「文化の違い」も入ってくる。英語だって負担がゼロであるはずがない。
初めの間は常に上を向いて話さざるを得ないと感じていた。これは身長の差だけではなく、何か見えざる壁に向かって語っているかの間があった。上向き会話の悩みは時間が解決してくれたその壁と体力差を乗り越えて初めて彼らと対等に近くなると思っている。
確認しておくが、頭脳のことではない。頭脳の力を発揮できるまでに乗り越えるべき障害物のことである。宮里藍はこれを乗り越えた上で、力で勝負するゴルフを、あの身体でやらねばならないである。
すなわち、見えざる壁とゴルフの業で競う世界に入って、あの結果であろう。パットがどうの、飛距離がどうのという問題ではないと懸念する。
但し、この論法に破綻がくるとすれば「何故、韓国のゴルファーは男女ともアメリカで世界の一流選手の中で堂々とやっているのだろう」という問題ではないか?
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1600 「宮里藍帰国せよ」論 前田正晶

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