1954(昭和29)年4月に法政大学へ入ったら、大内兵衛総長が「新聞は朝日、雑誌は世界を読むように」と訓示があった。これは入るべき大学を間違えたと思った。
なるほど次の日からの講義のすべてがマルクスに終始した。これは駄目だと秋田に帰った。しかし、両親は社会党員だから話が通じない。とにかく隣近所への見栄えもある、来年、違う大学を受けなおすと言っても経済的余裕が無い、と言われて泣く泣く戻った。
田舎では犬は自分の食う分の重さを背負えない、と爺さんに教え込まれたが、マルクスは人間は自分が食う以上のものを稼ぐ。雇った資本家はその稼ぎの余剰分を搾取する、と教える。
しかし人間は欲に駆られて生きて行く動物である。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うじゃないか。生きている限り働くのが人間の務めと教えられて育った。オレはマルクスは止めた。
だから法政大学の4年間は参考書らしきものを図書館か下宿で読んで過ごした。小説はあまり読まなかった。夜になると焼酎を飲んだ。私鉄駅のガード下で。
マルクスの「資本論」は政治や経済の教科書ではない。あれはお経だ。信ずる奴は騙されるが、信じない奴にとっては端(はな)から聞く耳を持たない。だからソビエトのように1度は騙されても70年ぐらいしか保(も)たない。予想通りだった。
社会党に在って小作人の僻み根性の代表だった佐々木更三から仇敵のように疎まれた江田三郎。彼は「構造改革論」の主張者として歴史に残る。参院議長江田五月の父親である。記者時代、1年だけ担当した。
1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。
しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田と彼を取り巻く、若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱えるようになった。
1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として
アメリカの平均した生活水準の高さ
ソ連の徹底した生活保障
イギリスの議会制民主主義
日本国憲法の平和主義
をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる江田ビジョンである。これが新聞報道されると、話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。
しかし、社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判され、江田は書記長を辞任して、組織局長に転じた。
この中で江田ビジョンですら「徹底した生活保障」としてソ連を目標の一つとしたが、ソ連は1991年12月25日に大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は解体され消滅した。
ソ連による「壮大な実験」が失敗した事により日本社会党もほぼ消滅したではないか。
私の父は秋田県で若いときから小作争議の先頭に立ち、戦前から社会主義者だったらしい。従って戦後は率先して日本社会党員として奔走していた。母も同調していた。
しかし私は社会党が農民の暮らしを楽にする政党と言うなら村中が党員になるはずなのに、投票すらしない。社会党の主張は何時まで経っても実現しない、これは宗教団体に過ぎないと反発した。
それでも大学では労働運動史や賃金論を一所懸命学んだが、ついに運動に走らずに済んだ。卒業が1958年だったので「60年安保」に巻き込まれることも無く済んだ。既にNHK仙台で働いていた。
しかし、人生の終盤に至って考えれば、要するに私は人に説得されない性格のようであって、先輩や周辺も初めから匙を投げていたのかもしれない。
併せて父母や法政大学が反面教師になってくれて助かったのかもしれない。
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